あすなろ健康院ブログ

あなたの心と身体の健康をずっと見守り続けている灯台でありたい…

母の日

2017-05-14 23:23:20 | 我が道

今日は母の日でしたね。

私の生まれた1月31日に辿り着くまで
なんと1ヶ月以上予定日より遅れ
そんな訳で
65年前はカルシウムをしっかりと摂取しないと
赤ちゃんの方へ行ってしまうなど言う概念にも乏しく
つわりもひどくて食べられず
結局 すべての歯がなくなってしまったのでした。

生まれたあとも
とても弱くて
あちらこちらの病院や八卦見のところまでも行ったのでした。
そんな訳で また初めての男の子ということで
とてもとても大事に大事に育てられました。
お陰様で益々増長し
全くの世間知らずのまま大人になってしまいました。

大人になって
いきなりギターに狂い
いきさつを知らない母は「もう帰って来ない」と
私が山土を一輪車で運んで積み上げた築山でずっと泣いていたそうです。

時は流れ
65歳にしてようやく日の目を見る日がやってきましたが
もうあれから30年余の月日が流れ
母は今どうしているのだろう…
大正9年生まれ。

人生が二度あれば
なんて 親不孝な息子の言い逃れとわかっていても
想い出す度に涙が止まらない


静かな誕生日

2017-01-31 23:29:25 | 我が道

今日
65回目の誕生日でした。

ことここに至っては家族からお祝いされる事もなく
ところが教え子や施術のお客様の皆様から
何件かお祝いをいただきました。
長くレッスンを受けて頂いている方と
ブログをよくご覧になっていて下さる方々でした。
なんだか家族のような近しさを感じ
とてもこころがほっこりしました。
ありがとうございました。

としみつくん
誕生日おめでとう!! (^ ^ ) 

導かれるように…

2017-01-07 21:32:38 | 我が道


追想…
私は幼い頃から
いや生まれた時から超虚弱で食も細く
以来ずっとガリガリで背も低かったです。
身長しか記憶にないですが
小1入学寺97cm
小6  126.4cm
中1  131.6cm 
中3  143.1cm
高1  150.6cm
特に小中の時はガリガリで肋の数が数えられる程でした。
ちなみに現在は160cmです。
至って超健康で今が一番元気です。

こんな冒頭の流れから始まりましたが
要は生まれた時から天職というのは決まっているのかな?
と。

そして月日は流れ…

様々な方々の支援と精神の贈り物を戴きました。
だからこそ
何か上手く行って有頂天になりかけても
もう一人の自分が抑制して
間違った道に進まぬようにしてくれていたんだと
最近特にそう憶います。

私は超行動派なので勢いを
自分でも制御出来ずまたサービス精神も手伝って
言動も荒っぽかったり空気感で動いたり話したりすることも多く
誤解されやすいのは不徳の致すところであります。

そして
それが原因で終わった人間関係も数知れず…
それでも還暦を過ぎるとかなり落ち着いて来た。

さてかつて
そんなやんちゃな俺でも好いてくれるひともいて
心底尽くしてくれたことは忘れることはない。

あれは
30歳になった頃だが
今も鮮明に想い出される。
それが
最近ブログでもご紹介した
「尽くして忘れること」
という真実の愛
を教えてくれた素晴らしい女性だった。

私は生涯忘れることはない
と憶っていたあれから30年の時空を超えてメールが届いた。
そうしたら今は古希となり
骨粗鬆症で5cm背が低くなり体調も優れないご様子。
1回目の腱鞘炎(のちにジストニアと判明)でとても落ち込んでいた
時の救世主であり心の全てを支配していた
人生最大の「恩人」でもあったので
何かお役に立てるならば…
とその想いを返信したのだが
「私は何もしていないのでお気遣いのないように」
と返って来ました。
だけど人生のギリギリの分岐点を何とか乗り切れたのは
その方のお陰であり今があり
自分が間違っていたらきちんと導いてくれた。
人生後半の原点は確かにここにあった。
そして導かれるように今ここにいる。
そんな大恩人に全快を願って今夜も遠隔を送り続けようと惟う。


お彼岸に寄せて

2016-09-22 17:19:17 | 我が道

私が26歳の頃
20歳の女性に恋をした。
その娘はギターの同志だった。
私と違ってプロを目指し懸命にがんばっていた。
そんな彼女は
でも普段はとても可愛らしくて愛らしくてみんなの注目の的だった。
ギター合奏団を一緒にやっていて
当時帰り道が同じで
いつしか家の近くまで送って行くことが多くなり
ますます魅かれて行った。

そんな日々が続いたある日
ドライブに誘った。そう初めてのデートだった。
向かったのは南高梅で有名な「一目100万本」と謳われた南部梅林だった。
ぼくはもう有頂天になっていた。
自分もギターをがむしゃらに弾くようになり
さらに距離は縮まった。
…ように見えたのは自分だけだった。
その頃彼女は深刻な悩みを抱えていた。
それは…
「頚肩腕症候群」という単に肩こり程度ではなく
今で言えば酷い腱鞘炎のようなものだったのだろうか。
もう遥か40年程前にもなり
その頃はまだ世間にはよく知られていなかった感じの物だった。
当時 ぼくは全くの無知で何の力にもなれなかった。
まず悩んでいることすら気づいてあげられない有様だった。
それでもその年の忘年会にはとても元気にはしゃいでいた姿が
今も脳裏に焼き付いている。

だが忘れもしない
開けて正月4日の未明
彼女はガス自殺を図り亡くなった。
あまりにもあっけなく
でも私の心の奥底に深く刻み込まれ
以来15年に亘り
故郷・和歌山に帰省する度にKさんの菩提寺のお墓に花を手向け続けた。

これが後々心の芯となり
自分の道を決められて行くのだった。
そう そんな風に感じた。

月日は流れ
氣功センターを開設して足掛け10年。
少しはまともな施術も出来るようになった。
だから誰かの
健康になりたい有りたい人の手助けになりたい想いで満ち満ちている。
でも全員の健康を叶えることは出来ない。
それでも自分の周りにいる人々
慕って来られる方々ならばなんとか出来るのではないか。
一生懸命に生きようとしている人たちに
少しでも健康に
そして幸せになってもらいたいから
惜しみない努力は勿論のこと
媒体となりうる為の自らへの浄化
そして純粋な心を生涯磨き続けたい。




お盆に寄せて

2016-08-15 12:01:00 | 我が道


今年もこの季節になりました。
茂原に関わりをもって早30年…
直近の帰省は2010年だ。
もう6年も帰っていない。
音信も途絶えた。
家族はそれぞれに懸命に生きた。
誰も悪くない。
強いて言えば
後先考えず突っ走ってしまった。
良く言えば天真爛漫
身内から見ればフーテンの寅さん…
いや寅さんに失礼ですね。
ただの身勝手に映っただろう。
自分の進むべき道を探し続けただけなんだけれど…
でも変貌してしまった自慢のみかん畑には本当に申し訳なく
たらればにずっと苛まれた。

農業が嫌いだった訳ではない。
むしろ大好きだった。
でも身体が虚弱で
パラパラと雨が降り出したらすぐに飛んで帰って
夕飯時までいつも寝ている有様だった。

もう一つ
当時、父はやり手の篤農家で
とても追いつけず
当然任せてももらえない苛立からもあって
あるとき
突然上京した。
今まで超真面目だった僕に母は
「30でグレてしまった」
と、ずっと嘆き悲しんでいたとあとで妹から聞いた。

あんなに元気だった父はすでに見る影もなく
人生のまたまたたられば…
でも今はもうまったく感じない。

ところで
父は三男坊だったが
長男はあのレイテ島で玉砕。
次男は旧満州からの移動中の朝鮮半島で戦死。
三男坊の父は無線技師として旧満州を転戦し
終戦を迎え、辛うじて帰国した。

なので
無線の仕事がしたかったそうだが
父は家業を継ぎ
芋畑を開墾し
再び人も羨む立派なみかん園へ築き上げたのだった。
だから農業は継いで欲しかったけれど
自分の想いも託した如く
何も言わず
何も聞かないうちに
いつしか時は流れ
「お前は誰だ?!」
になってしまった。

以来
墓参りもせず
出来ず、
親孝行も忘れ
みんなから袋だたきに遭っても何も言えない。
だからこそ
自分に受け継がれたDNA=身体を大事にすることで
せめてもの親孝行 先祖孝行にさせていただいている。
毎晩田舎への遠隔も添えて…
お陰さまで64歳の今が一番元気。
これからはもう迷う事なくこの世界に邁進しますのでよろしくお願いいたします。



理不尽な兄のためにすべてを受け入れざるを得なかった妹には本当にすまない。でも君のお陰で今ここにいられる。本当にありがとう。