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遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

こんな人がいた~「杉並シリーズその4 寺山修司その2 早大時代&五月よふたたび」

2023年10月19日 | 読書




1954(昭和29)年 寺山修司18歳(以下 修司と書く)は早大国文科に入学する
 修司は俳句研究会の新入生歓迎会に顔を出した
 10人ほどの新入生を含めて30人ほどが集まっていた
 句会では各自が自分の名前を伏せて短冊に5句ずつ書く 

 それらを集めてシャッフルし 全員分を紙に書き写して全員に回す
 30人なら全部で150句 そのうち各自が佳いと思う句を5句づつ選ぶ
 より多くの会員が選んだものから上位5句が その会の秀句というわけだ

 1句読み上げるたびに 「これは誰の句?」と訊く
 「スウズ」と会場から声が上がる 「名前だけじゃなく苗字から言って!」
 「寺山修司です」・・・選ばれた5句中 4句がスウズの作品だった

 同席した中に修司より2年先輩の学生がいた
 彼も将来は俳句で身を立てようと ジオノ 俳号を自らにつけていた
 「色黒のサトイモみたいな田舎出の子がこんな素晴らしい句を作るのか・・・」

 彼は俳句の道を諦め これも好きだったジャズ評論家の道を行く
 この学生が後のテレビ司会者・放送作家etc.が知られる大橋巨泉である

1955(昭和30)年 19歳
 3月 修司はネフローゼ(腎臓の病気)で立川の病院に入院する
 なぜ立川? 母のハツが立川の米軍キャンプで働いていたからだ
 2ヶ月ほどで退院した後は高田馬場に下宿する
 6月 ネフローゼが再発 西大久保の社会保険中央病院に再び入院する
 ここでの闘病生活が3年余り続く
 その入院中 修司が書いた戯曲が早大で上演された
 それを見て「凄い才能だ!」と感嘆したのが詩人の谷川俊太郎
 (氏については10月挙5日の「詩のボクシング対決」参照)
 氏は入院中の彼を見舞いに訪れ 彼にラジオドラマのシナリオ執筆を勧める
 これが二人の詩人の交遊の始まりだった

1958(昭和33)年 22
 7月 社会保険中央病院を退院 新宿区諏訪町に居を移す
1960(昭和35)年 24

ここまで書いたら 彼の没後に作られた彼の動画がYoutubeにあった
私がヘタな超要約記述など書くより、ビジュアル作品が彼にはふさわしい


それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]