遊びをせんとや

人生総決算!のつもりで過去・現在のことなどを書きます
といっても肩肘はらずに 楽しく面白く書きたいと思います

詩人あの人この人~「番外編 大正ニッポンのプロコフィエフ」

2023年10月14日 | 読書


今日から「三好達治」について書く・・・つもりだったがヤメにした
朔太郎の末の妹アイと結婚した三好だったが 1年も経たずに別れた
その後 世田谷で亡くなるまで独り暮らし・・・では書くことも無さそう
彼の詩が好きな人には申し訳ないが 写真を1枚載せて終わりにする


三好達治1900(明治33)-1964(昭和39) 詩人・翻訳家・文芸評論家 

代わりに番外編として「大正ニッポンのプロコフィエフ」を書く
プロコフィエフはロシアの作曲家
「ロミオとジュリエット」「ピーターと狼」など聴いた人も多いはず

 1918年頃のプロコフィエフ

その彼が1918年(大正7年)の6~8月 ほぼ2か月間に日本に滞在していた
目的地は米国だったが船便が無く 次の船が出るまで日本に留まった
初めて知ったことなので詮索癖が出て・・ワケ知り顔でこれを書いたワケ

かれは滞在中 ほぼ毎日日記をつけていた
名前が出て来る日本人が二人いる その日記を引用しよう(原文のママ)

1918-07-02 
"日本人ジャーナリストと日本料理店で昼食をとった。帝国劇場の支配人が、宣伝の意味もあって設定したのだ。大田黒先生(※)が音楽や私について書いた本。これがマスコミに非常によい印象を与えた。大田黒先生はロシア音楽にきわめて精通しており、私たちは食事の間じゅう(英語で)話に花を咲かせた。食事は膝を曲げて座る日本式。芸者衆が踊り、客一人につき若くてきれいな日本女性二人がそばに座った。とても楽しかった。"
当時 大田黒は馬込文士村に住み プロコフィエフの宿泊ホテルが近かった
 二人はよく会っていて、大田黒家のピアノも弾かせてもらっていたという

  
大田黒元雄 1893(M26)~1979(S54) 音楽評論家~1917年撮影

1918-07-12  
”東京に行き、徳川侯爵(※)のところで昼食をとった。若くて非常に面白い日本人で、西洋音楽にとても入れ込んでいる。日本の貴族とはどんなものか、興味をもって見たが、侯爵はまったくもってヨーロッパ的な人物で、じつに魅力的で飾り気がなく、東洋をまるで感じなかった。”
※徳川頼貞 1892-1954 音楽学者・政治家・実業家

徳川 頼貞 1892(M25)-1954(S29)  音楽学者、政治家、実業家

滞在中 プロコフィエフは3回ピアノ演奏会を行った
プログラムは自作のソナタやショパンなど
"聴衆はとても礼儀正しく聞いていた"と日記に書いている

大田黒の話に戻るが 彼は杉並区にも家を持っていた
彼の死後 屋敷跡が遺贈され 昭和56年に大田黒公園として開園している
私も50年代初め頃まで 杉並に10年以上住んでいたので たいへん懐かしい

そう言えば阿佐ヶ谷文士村があったことも思い出す
ネットを探したらこんな地図も見つかった(ぶらっと杉並文学散歩より転載)


ついでに昭和初期頃の杉並あたりの地図
西武電車がこんなふうに通っていたとは知らなかった!(クリックで拡大可



今日はとりとめなく漂流してしまった
最後にプロ日エフ作曲のピアノ協奏曲No.3 Pfはアルゲリッチ(トシとった!)
 

それでは明日またお会いしましょう
[Rosey]