教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑪ 18世紀の英国のメソジスト運動における新しい歌 <9>

2005-05-11 22:41:56 | 講義
4. メソジスト運動にける讃美歌の機能

◆あらゆる大きな宗教運動には必ずといってよいほど讃美歌が相伴っていた。(脚注55)
たとえばワルド派(拙注・1170年頃南フランスに起こったキリスト教の一派)、フス派、ロラード派(拙注・14~16世紀に英国のジョン・ウィクリフの語った革新的宗教思想)などの改革をめざした宗教運動はそれぞれ自分の讃美歌をもっていた。またルターやカルヴァンによる宗教改革においても讃美歌の果たした役割はいくら評価しても過大になるということはない。しかしながら、それぞれの宗教運動の讃美歌についての理解には多様性がみられるのである。
◆「メソジスト運動はより広い範囲に讃美歌についての新しい概念を与えた」(脚注56)といわれたけれども如何なる意味においてであろうか。すでに第二章において近世プロテスタント讃美歌の歴史を通観したが、そこには讃美歌の理解について大きく2つの相異なる系統があるように思われる。その相違はとりわけ、カルヴィン系とメソジスト系との比較において明瞭に見ることができる。カルヴィン系の讃美歌観は「神に向かって賛美する」という傾向が強い。人間の言葉を用いた創作讃美歌を一切認めず、詩篇のみを音律化して自国語で歌った。従ってその内容は神そのもの、神の統治、神の救済行為についてうたったものが多い。これは教理にもなる。しかもその役割はあくまでも礼拝を中心にして考えられている。
◆それに対して、ウェスレー兄弟を中心とするメソジスト系の讃美歌観は福音の真理を主観的に個人的に表現したもの、つまり救われた人間の信仰体験、及び心情をうたう「救いの心情表明」的傾向をもっている。この傾向は自己の魂を内省的にうたうドイツの敬虔主義の流れをくむモラヴィア派の影響を受けたものである。カルヴィン系のように礼拝のために考えられておらず、むしろ伝道を目的とする霊感に満ちた媒体として考えられている。
◆メソジスト系の「新しい歌」はあらゆる信仰体験が表出された霊の歌(spiritual song)であった。チャールズ・ウェスレーはその生涯に6500以上の讃美歌を作ったといわれるが、その多くが人々をイエス・キリストをとおして神に導くというただ1つの目的のために書かれ、また歌われた。彼にとっては明らかに福音を知らない無学な男女を、讃美歌を通して悔い改めと信仰に導くのが狙いであった。それゆえに伝道の武器としての讃美歌は、簡明率直で、しかも迫力に富んだものでなければならなかった。
◆さて、ウェスレー兄弟が福音的回心を体験して以来、彼らは人類のしもべとなって福音を伝えるが、1739年、英国国教会は彼らに対して門戸を閉ざすようになった。そのために彼らは、ホイットフィールドの提案もあって、余儀なくブリストルでの野外伝道を始めることになった。   
◆ジョン・セニック(John Cennick 1718~1755)(脚注57)という信徒説教者がブリストル郊外のキングスウッドという町で、炭鉱で働く労働者たちを相手に伝道した模様を記したその記録が残されている。(脚注58)これによると、当時の伝道は全く音楽伝道、ないしは讃美歌伝道と称すべきものであった。セニックは良い声をもった、すぐれた歌い手であって、その天分を発揮して   讃美歌歌唱で伝道集会を助けた。彼の指導によって幾つかのよく知られた讃美歌が歌われ、その間に祈りが捧げられる。そのあとで新作のチャールズ・ウェスレー讃美歌を1行ごとに独唱して会衆に唱和させる。その合間になされる解説がそのまま説教になる‥‥という具合に。
◆当時のキングスウッドという町は、教会もなく祭司もいないところであり、そこの住民たちの野卑な日常生活は知れ渡っていた。(脚注59)メソジストの集会は最初、教会の礼拝として考えられていなかったので、無教育な炭坑の貧しい労働者たちは不調和だと思うこともなく、自然にチャールズの讃美歌をうたう習慣を身につけながら、大切な信仰の真理が教えられたのである。しかも彼らがうたう歌詞は、彼らの霊を新たにし、同時に、友人や隣人の心に語りかける、生きたメッセージとなった。こうした伝道がメソジスト運動の初期の模様であった。
◆チャールズ・ウェスレーの讃美歌は最初から自分自身の信仰と体験を表わしたものであるゆえに、それをメソジストの人々に、会衆歌として提供することによって、共通の福音の理解と体験を呼び起こす開示する道具となった。そればかりでなく、共通の情緒的反応を引き起こして、集団を統一させる道具として機能したのである。
◆最後に、メソジスト運動における讃美歌の効用についてジョン・ウェスレーが果たした貢献について言及しておきたい。シャッフ博士は「ジョン・ウェスレーは讃美歌の価値を最初に認めた英国の聖職者の1人であった」と述べている(脚注60)が、確かにジョン・ウェスレーがメソジズムの伝道を「うたう伝道」とした貢献は見落とすことができないものがある。その貢献は一般に認められているよりも大きく、また重要なものである。H・E・クッコックとP・ハッチンソンはその貢献を次のように3つの面において指摘している。(脚注61)
◆その第一の面は、編集者としての貢献である。ジョン・ウェスレーはチャールズや他の初期のメソジスト作家の讃美歌のために編集者として行動した。ジョンは彼らの作品を弱めてしまうと思われる表現の放縦(無節制)から救った。彼は過度に熱狂的なものを良しとせず、修正し、また変更したのである。
◆第二の面は、翻訳者としての貢献である。彼は最も高い霊的な性質を持った讃美歌をメソジストにもたらした。彼はモラヴィア派や他のドイツの敬虔主義的讃美歌から24の讃美歌を翻訳した。
◆最後の面は、会衆の歌が高められるものであることを強調し、新しい位置にまで引き上げた。それは会衆唱歌を、福音を拡大する新しい方法として用いたことである。その前兆は、すでに1737年、南カロライナのチャールスタウンで出版した最初の讃美歌集 Collection of Psalms and Hymns にみることができる。そこには国教会の礼拝を思わせるようなものが何ひとつ含まれていなかったということは注目すべきことである。(脚注62) その理由はジョージア伝道に向かう船旅の中で聞いたモラヴィアンの讃美歌によって、讃美歌の霊的可能性に対して彼の目が開かれたからである。彼は英国国教会の韻律化された詩篇のまじめな歌い方に反発して、性質を異にする熱情的なタイプの讃美の歌い方を集会に導入した。1738年5月の福音的回心後、ジョンはチャールズと協力して54の音楽に関する印刷物を出版した。(脚注63) そのことはメソジストをして「歌うメソジスト」と言わしめるほど、讃美歌の会衆歌唱を重視したことであり、英国の教会でも独特の伝統を作りあげたのである。

(脚注55)
◆例外として、初期クウェーカーは讃美歌を礼拝から排除してしまったが、後に漸次採用するようになった。
(脚注56)
◆メンデル・テイラー著『伝道の歴史的探求』369頁。
(脚注57)
◆ジョン・セニックはブリジストンの郊外のキングスウッドの学校の教師であったが、後にメソジストの信徒説教者として活躍する。ウェスレーとホイットフィールドが選びの教理に対する立場の相違から分かれた時、セニックはホイットフィールドに従ってウェスレーから去った。その後、間もなくホイットフィールドからも離れてモラヴィア教会に転じた。37歳で召された。
(脚注58)
◆竹内信著『讃美歌の研究』からの引用。180~183頁。349~350頁参照。
(脚注59)
◆野呂芳雄著 前掲書。158頁。
(脚注60)
◆『戦う使徒ウェスレー』228頁からの引用。
(脚注61)
◆以下は、H. E. Luccock and P. Hutchinson; The Story of Methodist, 115~117頁を参照。
(脚注62)
◆James Salle; The Evangelistic Hymnody,第一章参照。ウェスレーの最初の讃美歌集、Collection of Psalms and Hymns には、ウォッツと他の人々の70篇から成っており、ジョン・ウェスレーによる5つの翻訳を含んでいる。
(脚注63)
◆The works of John Wesley, vol.14, 1892.318~346頁には、Poetical work が49篇、Musical workが5篇載せられたリストがある。