教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑪ 18世紀の英国のメソジスト運動における新しい歌 <2>

2005-05-02 12:04:31 | 講義
(2) チャールズの信仰経験

②自己崩壊時代

◆1735年、教職按手を受けた後、兄のジョンと、さらに『神聖クラブ』の他の二人のメンバーと共に、当時イギリスの植民地であったアメリカのジョージア州に宣教師として出掛けた。チャールズ28歳の時である。その一行はジョージア伝道に行く目的をインディアンたちに福音を宣べ伝えることであると考えていたとともに、自分自身のたましいを救うためであると考えていた。(脚注6)
◆彼らの伝道は失敗に終わった。チャールズが約半年にして英国に帰ることになってしまった直接的な原因は、二人の婦人の計略によってオグラソープとの間にトラブルを引き起こしたためであった。しかし背後には二つの誤った考え、即ち、人間に対する楽観的な考え方と自らのたましいの救いの追求として宗教的エゴイズムが最初から彼らの伝道を失敗させる要因であったといえよう。「これはまさに『神聖クラブ』の意図そのものであった。即ち、ジョージア行きは『神聖クラブ』の延長線上にあるそれの拡大されたもの」であった。(脚注7)
◆1736年12月に英国に戻ったチャールズは、その後17ヶ月の間、オックスフォードで過ごすことになる。その間の1738年2月にチャールズはモラヴィア派の牧師、ペーター・べーラー〔Peter Böler〕(脚注8)と出会い、彼から大いなる影響を受けるのである。
◆チャールズの『日記』にはペーター・ベーラ-との会話が記されている。
「1738年2月4日。・・・私は激痛(拙注:この頃、歯痛と肋膜炎で悩まされていた)で起された。・・まもなくしてペーター・ベーラ-が私の傍らにやって来た。私は彼に自分のために祈ってくれるように頼んだ。最初、彼は気がすすまないようだったが、・・奇妙な確信をもって私の回復のために祈った。それから彼は私を抱いて穏やかに言った。『あなたは今、死にたいと思わないでしょう。』私は内心思った。『朝までこの痛みに持ちこたえることができない。でももしそれまで痛みが和らぐなら回復するかもしれないと信じる』。彼は私に尋ねた。『あなたは救われたいと望みますか』。『はい』。『では、あなたがそのように望むその理由は何ですか』。『それは私が神に仕えるために、あらゆる努力を払いたいからです』。彼は頭を振って、それ以上何も言わなかった。私は彼が非常に冷たい人だと思った。心の中で、『どうして私の努力が望みの根拠として十分ではないのか。他に頼るべきものを持っていないのに。』」(脚注9)
◆同年の4月28日の『日記』には次のように記されている。
「・・彼は私の傍らに立って、私のことを祈った。それは少なくとも、今私が神のご計画と、なかなか直らない私の病気との関わりについて知り得るようにということであった。私はすぐに、ベーラ-のいう信仰の教えを再度考えるべきかも知れないと思った。つまり私自身がその信仰によって立っているかどうかを尋ねて、もしそうでなかったとしたら、それを尋ねて、それを得るまであくまでも求め続けていこうと決心した。」
◆これら二つの『日記』の記事が明らかにしているように、ペーター・ベーラーとの会話をとおしてチャールズが自らの救いの確証を自分の義においていたことを知らされ、同時に信仰によってのみ義とされることを自分のものにしようとの努力が見られる。しかし、それが自分のものとなるまでにはなおも内的な戦いがあった。なぜなら、信仰の教えを受け入れることは今まで自分が拠って立ってきた基盤が崩れることであり、自己崩壊を意味するからである。しかしそれはすでにジョージア伝道の失敗、病気、ペーター・ベーラ-との出会いを通して始まっていたのである。

(脚注6)
◆野呂芳男著『前掲書』111~113頁参照。ジョン・ウェスレーが1735年10月10日に友人のJ・バートンに書き送った手紙の一節に「私のおもな動機は・・私自身の魂を救うという希望です」と書かれている。また『日記』には(1738年2月1日に伝道に失敗して英国のディールに戻った)ジョージアに行った目的をインディアンたちにキリスト教の本質を教えるためであったと記している。
(脚注7)
◆同上。112頁。
(脚注8)
◆ペーター・ベーラーは1738年2月1日以来。英国に来ていたモラヴィアンの指導者である。彼は5月1日ロンドンに滞在し、5月4日にはカロライナに向けて出発した。その間、チャールズと2月1日に英国に戻ってきていたジョンに多大の影響を与えた。その時、ベーラーは21歳の青年であった。
(脚注9)
◆チャールズの『日記』の第一巻(Baker book House,1980)。


本論⑪ 18世紀の英国のメソジスト運動における新しい歌 <1>

2005-05-02 11:50:37 | 講義
講義―本論⑪は、拙者の東京聖書学院卒業論文『チャールズ・ウェスレーの讃美歌―その特質と意義』(1982.3)からの引用である。

1. チャールズ・ウェスレーの信仰体験 

(1) 兄ジョンとの関係                
◆メソジスト運動といえば、ジョン・ウェスレー(1703-1791)がまず代表的な指導者と見られ、弟チャールズ(1707-1788)の存在が兄ジョンの陰に隠されて無視されやすい。しかしそれはチャールズがジョンの従者、あるいは、補助者という位置にあったということではない。ジョンは1765年の年会で、「メソジズムの起源は何か」という自問自答の仕方で述べた中にチャールズとの関係が明瞭に示されている。
◆「1729年に弟のチャールズと私は、聖書を読んでホーリネスなしには救われ得ないことが分かったので、それを追い求め、他の人々にもそうするように励ました。1737年に、われわれはホーリネスが信仰によって与えられることが分かった。1738年に、われわれは人が潔められる前に義とせられること知ったが、なお依然としてホーリネス―内的、外的なホーリネスはわれらの追求の課題であった。そして神は聖なる民を起こすべくわれわれを押し出したもうた。」(脚注1)
◆ウェスレー兄弟はこのように、少なくとも『神聖クラブ』時代から1765年まで、同じ体験、同じ神学的立場に立ち、同じ使命と課題を担っていたといえる。しかしながら、メソジスト運動における彼らのおのおのの役割と性格と表現形式とは異なっていた。兄ジョンは稀にみる政治的手腕をもって運動を組織化し、運営して行った。また、神秘主義的思想、理神論などの合理主義的思想、カルヴァン主義などに対して主体的に対決しながら、論理的、説得的に自らを表現していった。他方、弟チャールズの方は、その讃美歌によってメソジスト運動の精神をより直接的に、直観的に表現し、運動それ自体にいのちと情熱と感動を与えた。それによって、運動全体の進展に大いなる役割を果たしたのである。讃美歌学者R・G・MucCuthanは「歌う教会」と題する論文の中で、チャールズの讃美歌が、ジョンの語ったことや書いたものよりもメソジズムの福音的神学を維持するのに、より効果あるものとなったとしてチャールズに優位な評価を下している。(脚注2)
◆いずれにせよ、彼らはともにメソジスト運動の有力な指導者であり、その役割と性格、表現形式を異にしながらも、常に同じ考えに立ち、また同じ使命と課題を担って、宗教的停滞と道徳的退廃のために国家的危機を迎えていた18世紀の英国を救ったのである。

(2) チャールズの信仰経験
◆チャールズ・ウェスレーの讃美歌は根本的には自叙伝である。それらは彼自身の霊的生涯を単純に、しかも直接的な方法で描いている。チャールズの霊的生涯の中心をなし、彼の讃美歌全体の基盤をなしているのは、1738年5月21日の福音的回心と言われる体験である。それは彼が30歳の時であった。彼の讃美歌を見ていく時、パウロやルターと同様、福音的回心がチャールズの讃美歌作家としての生涯に対していかに重大な意義をもっているかを知ることになる。その体験以来、チャールズは50年以上の長い年月にわたって讃美歌を作り続けた。その作家意図は最初の時と異なることなく、自分自身の信仰と神学とを表現し、メソジスト運動に生き生きとした会衆歌を提供することとなったのである。
◆そこで、そのような讃美歌が生まれるに至った生涯と彼に及ぼした影響について一瞥しよう。彼の生涯をさまざまに区分することができると思うが、ここでは、彼の信仰体験の跡にしたがって次の三区分にしたい。
①自律時代(誕生からオックスフォード大学での『神聖クラブ』まで)
②自己崩壊時代(ジョージア伝道往復からペーター・ベーラとの出会いまで)
③自己確立時代(ルターの声、1738年5月21日の福音的回心より晩年まで)
以下、区分した順に従って述べていく。

①自律時代
◆チャールズ・ウェスレーは1707年12月18日、英国国教会の聖職にあったサムエル・ウェスレーと賢母として名高いスザンナ・ウェスレーとの間に生まれた18番目の子どもであった(子どもは全部で19人。ジョンは15番目である)。エスワープにおける両親の膝元で受けた家庭教育の遺産として、ヘンリー・カーターは三つの重要な要因をあげている。(脚注3)
◆その第一は<聖書に対する愛>である。家庭の中で尊ばれた聖書は、後に、チャールズの讃美歌の中に表されている。彼の最もよく知られている讃美歌を厳密に調べるなら、ほとんどあらゆる行の中に旧約聖書、新約聖書の語調やエコーがあるのを見ることができる。それは「もし聖書が失われたら、チャールズの讃美歌から多くのものを抜き取ることになろう」と言われているほどである。
◆第二の要因は<公式祈祷書>である。それは1662年、王政復古以後に第五祈祷書として出版されたもので、今日でも英国国教会の教えの重要な源泉であるだけでなく、英国国教会の伝統がそれによって保たれてきた媒介でもある。それは教会の初期の慣習を紹介するとともに改革者の教えも紹介した。祈りと感謝と礼拝の形式は絶えずチャールズの思考と判断に影響を与えたと思われる。
◆第三の要因は<生活態度>である。特に母親スザンナの峻厳な心・霊的訓育はチャールズに生活の規律、節度、敬虔さを植えつけた。
◆これらの三つの要因は、後の1728年オックスフォード大学での『神聖クラブ』の結成によって更新されていく。チャールズはまことの聖潔を追求するために他の者を勧誘しながら、同志とともに正しく生活するための規則を設け、出来る限り睡眠と食事の時間を節約して、祈祷、礼拝にささげた。この規則正しい生活がメソジスト(規律屋さん)と嘲笑された原因である。(脚注4)
◆『神聖クラブ』の第一の仕事は聖書の研究であった。それは熱心に、公正に、敬虔に、しかも倦むことなく続けられた。それだけでなく、囚人や病人の訪問と救助、自分たちの中の良い性質を育成するための週一度の聖餐式、および教会暦の祭日の厳守を生活規則として持っていた。(脚注5) またこの時期に、ジョン・ウェスレーは絶え間ない読書によって、ジェレミ・テイラー、トマス・ア・ケンピス、ウィリアム・ローらの書物から多大な感化を受けたことが知られるが、チャールズの場合には、兄に比べてわずかしか読まなかったようである。

(脚注1)
◆H・D・ワイレー、P・T・カルバートソン著『キリスト教神学概論』386頁。
(脚注2)
◆Robert .G . MucCuthan ; “A Singing Church”(William K, Anderson ed.“Methodist publishing House”1947)
(脚注3)
◆Henry Cater; The Methodist Heritage,1951 14~16頁。
(脚注4)
◆『戦う使徒ウェスレー』58~59頁。
(脚注5)
◆野呂芳男著『ウェスレーの生涯と神学』126頁。