(2) チャールズの信仰経験
②自己崩壊時代
◆1735年、教職按手を受けた後、兄のジョンと、さらに『神聖クラブ』の他の二人のメンバーと共に、当時イギリスの植民地であったアメリカのジョージア州に宣教師として出掛けた。チャールズ28歳の時である。その一行はジョージア伝道に行く目的をインディアンたちに福音を宣べ伝えることであると考えていたとともに、自分自身のたましいを救うためであると考えていた。(脚注6)
◆彼らの伝道は失敗に終わった。チャールズが約半年にして英国に帰ることになってしまった直接的な原因は、二人の婦人の計略によってオグラソープとの間にトラブルを引き起こしたためであった。しかし背後には二つの誤った考え、即ち、人間に対する楽観的な考え方と自らのたましいの救いの追求として宗教的エゴイズムが最初から彼らの伝道を失敗させる要因であったといえよう。「これはまさに『神聖クラブ』の意図そのものであった。即ち、ジョージア行きは『神聖クラブ』の延長線上にあるそれの拡大されたもの」であった。(脚注7)
◆1736年12月に英国に戻ったチャールズは、その後17ヶ月の間、オックスフォードで過ごすことになる。その間の1738年2月にチャールズはモラヴィア派の牧師、ペーター・べーラー〔Peter Böler〕(脚注8)と出会い、彼から大いなる影響を受けるのである。
◆チャールズの『日記』にはペーター・ベーラ-との会話が記されている。
「1738年2月4日。・・・私は激痛(拙注:この頃、歯痛と肋膜炎で悩まされていた)で起された。・・まもなくしてペーター・ベーラ-が私の傍らにやって来た。私は彼に自分のために祈ってくれるように頼んだ。最初、彼は気がすすまないようだったが、・・奇妙な確信をもって私の回復のために祈った。それから彼は私を抱いて穏やかに言った。『あなたは今、死にたいと思わないでしょう。』私は内心思った。『朝までこの痛みに持ちこたえることができない。でももしそれまで痛みが和らぐなら回復するかもしれないと信じる』。彼は私に尋ねた。『あなたは救われたいと望みますか』。『はい』。『では、あなたがそのように望むその理由は何ですか』。『それは私が神に仕えるために、あらゆる努力を払いたいからです』。彼は頭を振って、それ以上何も言わなかった。私は彼が非常に冷たい人だと思った。心の中で、『どうして私の努力が望みの根拠として十分ではないのか。他に頼るべきものを持っていないのに。』」(脚注9)
◆同年の4月28日の『日記』には次のように記されている。
「・・彼は私の傍らに立って、私のことを祈った。それは少なくとも、今私が神のご計画と、なかなか直らない私の病気との関わりについて知り得るようにということであった。私はすぐに、ベーラ-のいう信仰の教えを再度考えるべきかも知れないと思った。つまり私自身がその信仰によって立っているかどうかを尋ねて、もしそうでなかったとしたら、それを尋ねて、それを得るまであくまでも求め続けていこうと決心した。」
◆これら二つの『日記』の記事が明らかにしているように、ペーター・ベーラーとの会話をとおしてチャールズが自らの救いの確証を自分の義においていたことを知らされ、同時に信仰によってのみ義とされることを自分のものにしようとの努力が見られる。しかし、それが自分のものとなるまでにはなおも内的な戦いがあった。なぜなら、信仰の教えを受け入れることは今まで自分が拠って立ってきた基盤が崩れることであり、自己崩壊を意味するからである。しかしそれはすでにジョージア伝道の失敗、病気、ペーター・ベーラ-との出会いを通して始まっていたのである。
(脚注6)
◆野呂芳男著『前掲書』111~113頁参照。ジョン・ウェスレーが1735年10月10日に友人のJ・バートンに書き送った手紙の一節に「私のおもな動機は・・私自身の魂を救うという希望です」と書かれている。また『日記』には(1738年2月1日に伝道に失敗して英国のディールに戻った)ジョージアに行った目的をインディアンたちにキリスト教の本質を教えるためであったと記している。
(脚注7)
◆同上。112頁。
(脚注8)
◆ペーター・ベーラーは1738年2月1日以来。英国に来ていたモラヴィアンの指導者である。彼は5月1日ロンドンに滞在し、5月4日にはカロライナに向けて出発した。その間、チャールズと2月1日に英国に戻ってきていたジョンに多大の影響を与えた。その時、ベーラーは21歳の青年であった。
(脚注9)
◆チャールズの『日記』の第一巻(Baker book House,1980)。
②自己崩壊時代
◆1735年、教職按手を受けた後、兄のジョンと、さらに『神聖クラブ』の他の二人のメンバーと共に、当時イギリスの植民地であったアメリカのジョージア州に宣教師として出掛けた。チャールズ28歳の時である。その一行はジョージア伝道に行く目的をインディアンたちに福音を宣べ伝えることであると考えていたとともに、自分自身のたましいを救うためであると考えていた。(脚注6)
◆彼らの伝道は失敗に終わった。チャールズが約半年にして英国に帰ることになってしまった直接的な原因は、二人の婦人の計略によってオグラソープとの間にトラブルを引き起こしたためであった。しかし背後には二つの誤った考え、即ち、人間に対する楽観的な考え方と自らのたましいの救いの追求として宗教的エゴイズムが最初から彼らの伝道を失敗させる要因であったといえよう。「これはまさに『神聖クラブ』の意図そのものであった。即ち、ジョージア行きは『神聖クラブ』の延長線上にあるそれの拡大されたもの」であった。(脚注7)
◆1736年12月に英国に戻ったチャールズは、その後17ヶ月の間、オックスフォードで過ごすことになる。その間の1738年2月にチャールズはモラヴィア派の牧師、ペーター・べーラー〔Peter Böler〕(脚注8)と出会い、彼から大いなる影響を受けるのである。
◆チャールズの『日記』にはペーター・ベーラ-との会話が記されている。
「1738年2月4日。・・・私は激痛(拙注:この頃、歯痛と肋膜炎で悩まされていた)で起された。・・まもなくしてペーター・ベーラ-が私の傍らにやって来た。私は彼に自分のために祈ってくれるように頼んだ。最初、彼は気がすすまないようだったが、・・奇妙な確信をもって私の回復のために祈った。それから彼は私を抱いて穏やかに言った。『あなたは今、死にたいと思わないでしょう。』私は内心思った。『朝までこの痛みに持ちこたえることができない。でももしそれまで痛みが和らぐなら回復するかもしれないと信じる』。彼は私に尋ねた。『あなたは救われたいと望みますか』。『はい』。『では、あなたがそのように望むその理由は何ですか』。『それは私が神に仕えるために、あらゆる努力を払いたいからです』。彼は頭を振って、それ以上何も言わなかった。私は彼が非常に冷たい人だと思った。心の中で、『どうして私の努力が望みの根拠として十分ではないのか。他に頼るべきものを持っていないのに。』」(脚注9)
◆同年の4月28日の『日記』には次のように記されている。
「・・彼は私の傍らに立って、私のことを祈った。それは少なくとも、今私が神のご計画と、なかなか直らない私の病気との関わりについて知り得るようにということであった。私はすぐに、ベーラ-のいう信仰の教えを再度考えるべきかも知れないと思った。つまり私自身がその信仰によって立っているかどうかを尋ねて、もしそうでなかったとしたら、それを尋ねて、それを得るまであくまでも求め続けていこうと決心した。」
◆これら二つの『日記』の記事が明らかにしているように、ペーター・ベーラーとの会話をとおしてチャールズが自らの救いの確証を自分の義においていたことを知らされ、同時に信仰によってのみ義とされることを自分のものにしようとの努力が見られる。しかし、それが自分のものとなるまでにはなおも内的な戦いがあった。なぜなら、信仰の教えを受け入れることは今まで自分が拠って立ってきた基盤が崩れることであり、自己崩壊を意味するからである。しかしそれはすでにジョージア伝道の失敗、病気、ペーター・ベーラ-との出会いを通して始まっていたのである。
(脚注6)
◆野呂芳男著『前掲書』111~113頁参照。ジョン・ウェスレーが1735年10月10日に友人のJ・バートンに書き送った手紙の一節に「私のおもな動機は・・私自身の魂を救うという希望です」と書かれている。また『日記』には(1738年2月1日に伝道に失敗して英国のディールに戻った)ジョージアに行った目的をインディアンたちにキリスト教の本質を教えるためであったと記している。
(脚注7)
◆同上。112頁。
(脚注8)
◆ペーター・ベーラーは1738年2月1日以来。英国に来ていたモラヴィアンの指導者である。彼は5月1日ロンドンに滞在し、5月4日にはカロライナに向けて出発した。その間、チャールズと2月1日に英国に戻ってきていたジョンに多大の影響を与えた。その時、ベーラーは21歳の青年であった。
(脚注9)
◆チャールズの『日記』の第一巻(Baker book House,1980)。