教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑬ 英米圏における賛美歌の二つの潮流 <1>

2005-05-24 20:36:52 | 講義
A 伝道的賛美歌

特徴 : 主観的、感情的

英国非国教会系

日本福音同盟(JEA)に加盟するファンダメンタルな諸派

(1)18世紀のメソジスト運動
ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレー <解説①>

(2)19世紀のリバイバル
ムーディとアイラ・D・サンキー <解説②>

(3)20世紀の初頭 
ビリー・サンディとホーマー・ロードヒーヴァー <解説③>

(4)20世紀の中頃  
ビリー・グラハムとジョージ・ベヴァリー・シェイ <解説④>
ビル&グロリア・ゲイザー夫妻の果たした役割 <解説⑤>


B  礼拝、典礼主義的賛美歌

特徴 : 客観的、教理的

英国国教会系

日本キリスト教協議会(NCC)に加盟する諸派

(1)18世紀 聖公会韻律化された詩篇歌

(2)19世紀のオックスフォード運動 <解説⑥>
 「古今聖歌集」(1861)(Hymns Ancient & Modern)、改訂を重ねながら現行の1950年版に至っている。

(3)20世紀中頃のヒム・エクスプロージョン <解説⑦>
1950年以降、教会が経験した未曾有の危機と創作賛美歌の爆発

A B ―ペンテコステ・カリスマの影響―

(1)20世紀後半のプレイズ&ワーシップ <解説⑧>


(2)ブラック・ゴスペル <解説⑨>

―メシアニック・ジュー運動―

(3)イスラエルのJewish 賛美 <解説⑩>

●賛美の歴史の中で、20世紀ほど豊かな時代はなかったといえる。とりわけ近年、私たちは、礼拝の領域において、実に多様な創作賛美歌を手にしているのである。
●注⑧、注⑨、注⑩については、それぞれ本論⑭、⑮、⑯、⑰、⑱で扱うこととする。

A  伝統的賛美歌の流れ

<解説①> 18世紀のメソジスト運動・・ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレー
◆ウェスレーのメソジスト系の讃美歌観は福音の真理を主観的に個人的に表現したもの、つまり救われた人間の信仰体験、及び心情をうたう「救いの心情表明」的傾向をもっている。この傾向は自己の魂を内省的にうたうドイツの敬虔主義の流れをくむモラヴィア派の影響を受けたものである。カルヴィン系のように礼拝のために考えられておらず、むしろ伝道を目的とする霊感に満ちた媒体として考えられている。 チャールズ・ウェスレーはその生涯に6500以上の讃美歌を作ったといわれるが、その多くが人々をイエス・キリストをとおして神に導くというただ1つの目的のために書かれ、また歌われた。
◆18世紀の創作讃美歌が、ウォッツ、チャールズ・ウェスレー等の非国教派系の賛美歌作者を中心に作られて、英国の創作賛美歌をリードした。それは長かった詩篇歌時代の後に、泉のように溢れ出した。そしてこれは19世紀のリバイバルの福音唱歌(ゴスペル・ソング)の流れとなっていくのである。

<解説②> 19世紀のリバイバル運動・・ムーディとアイラ・D・サンキー
◆1870年から伝道者ムーディとコンビを組み伝道活動をはじめる。1873年のスコットランドのエディンバラでの集会で、新聞で見つけた歌詞(「九十九匹の羊は」)を即興で歌ったこと有名である。ムーディは感動し、説教台を降りてサンキーに近づくと、「あんな歌は生まれてはじめて聞いたよ」と涙ながらにたたえて言ったという。ムーディは、自分では歌わなかったが、キリスト教信仰に音楽が果たす役割をはっきりと認識していた。ムーディはこう書いている「たいていの人は歌うのが好きなのだと思う。会衆を惹きつけるのに役に立つ。たとえ説教が無味乾燥でも、歌が助けてくれる。歌が胸をうてば、教会はいつも満席になる。聖書には祈れという言葉より、ほめたたえよという言葉のほうが多い。歌と音楽は信仰復興運動につきものだが、もっと広い意味で、信仰を深めるために不可欠だと思う。神の言葉を人々の心に刻む上で、歌は説教に劣らず力を発揮する。神がはじめて私を呼びたもうとき以来、ほめたたえる気持ちを歌で表現することが大事だという核心は深まる一方である。」と。(チェット・ヘイガン著、椋田直子訳『魂のうたゴスペルー信仰に生きた人々―』音楽之友社、1997、41頁)。ムーディとサンキーの活動は、20世紀の信仰復興活動の手本となった。彼らと同時代の人の言葉を借りるならば、「ムーディは説教を通じ、サンキーは歌を通じて、地獄の人口を百万人ほど減らした」と言われている。
◆19世紀最後の25年間を通じて、ムーディが主催した信仰復興集会が、キリスト教音楽を飛躍的に流布した貢献は大きい。サンキーによる『賛美歌と独唱歌』と『ゴスペル賛美歌集』が百万部単位で印刷された。

<解説③> 20世紀の初頭の大衆伝道・・ビリー・サンディーとホーマー・ロードヒーヴァ
◆20世紀最初の25年間は、元メジャーリーガー野球選手だった伝道師ビリー・サンデイの伝道集会で音楽が活躍した。賛美歌歌手で演奏もしたホーマー・ロードヒーヴァーによって、数千の悔い改める人たちが前に進み出たという。ホーマー・ロードヒーヴァーがゴスペル音楽に果たした役割を一言で言うならば、「起業家」ということがいえる。彼は、福音集会での歌唱指導にささげる一方で、ゴスペル音楽専門の楽譜出版社を設立し、賛美歌のためのレコード会社を設立したからである。ホーマーが伝道師ビリー・サンディに出会ったのは1909年、29歳の時であった。その出会いから20年間、彼らは完璧なコンビを見せた。ビーリー・サンディの説教はまことに型破りで、彼が説教台に上がると、火を吐くような説教がとどまることを知らなかった。彼は元気のいい歌が好きで、芸術性の高い歌はあまり興味をしめさなかったという。また聴衆が好きそうな歌を見分けるのが上手で、ホーマーはいつも彼の判断を尊重していたという。(チェット・ヘイガン著、「魂のうたゴスペルー信仰に生きた人々―」音楽之友社、1997、49頁以降)。

<解説④> 20世紀の中葉の大衆伝道・・ビリー・グラハムとジョージ・べヴァリー・シェイ
◆ビリー・グラハムと歌唱指導者のクリフ・バウロズが『ユース・フォー・クライスト』と題する福音伝道6ヶ月のツアーで英国各地を回って帰国した後、1947年にグラハム氏は、シェイを専属独唱者として招く。後に、グラハム・クルセードと呼ばれる集会の発端から、グラハムはこれまでの伝道集会とは違った構想を持っていた。例えば、ドワイト・ムーディやビリー・サンディの場合、音楽を受け持つ人物―アイラ・サンキーやホーマー・ロードヒーヴァーーは、歌唱指導者であり聖歌隊指揮者であり、独唱者でもあった。しかしグラハム場合は、歌唱指導をバロウズに任せ、ベヴァリー・シェイ(当時38歳)を独唱者として迎えたのである。
◆日本には1978年に来日してクルセードガ開かれた。ベヴァリー・シェイが後楽園球場で歌った自作の曲
「キリストにはかえられません」は今でも、拙者(銘形)の耳に焼き付いている。

<解説⑤> 20世紀中頃における世代の断絶・・ビル&グロリア・ゲイザー夫妻の果たした役割
◆ビル&グロリア・ゲイザー夫妻。彼らは1962年に結婚している。ビルはゴスペル・ソングシングライターとして有名である。ビル・ゲイザーのヒット曲は「He touched me」「主は今生きておられる」で音楽界の頂点に立った。しかし彼ら夫妻には、ゴスペル音楽に果たした一つの役割があった。その役割とは、旧い世代と新しい世代、あるいは保守的な人々と革新的な人々との橋渡しをしたことである。キリスト教会の内部で、さまざまな対立があるが、特に年齢的な断絶は大きい。ことが音楽になると・・あっという間にバラバラになったりする。「音楽は世界の共通語だ」という人がいるが、この問題に関する限り、嘘である。スタイルが対立を生むのである。グロリアはこう言っている。「過去も現在も、キリスト教社会は本質と形式の違いを見失っているように思う。形式を問題にすれば、信者たちを対立されることはたやすいことである。逆に、本質を問題にすれば、皆が手をつなげるはずである。それが、私たち二人が果たそうとした役割の一つです。さまざまなスタイル、さまざまな形式を信じる人たちに『それは本質的問題ですか? そこに永遠の価値が秘められているでしょうか』と呼びかけてきた。形式から本質に力点を移すことによって、皆が一つになれるのです。」と。(脚注)


(脚注)
◆リック・ウォレン著(河野勇一訳)『健康な教会へのかぎ』(いのちのことば社、1998)の未翻訳分として2001年に発刊された『魅力的な礼拝へのかぎ』と題された小冊子がある。その中に「音楽を吟味する」という章がある。音楽のスタイルは礼拝スタイルと密接な関係がある。音楽のスタイルを決めるときの著者の具体的な提案がなされている。一読をお勧めする。