教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑭ Praise & Worship の起源とその流れ <2>

2005-05-31 13:00:41 | 講義
3. ワーシップ・リーダーの存在と役割

◆プレイズ&ワーシップは、ワーシップ・リーダーによって導かれる。ある程度の規模以上の教会や集会になると、司会者とワーシップ・リーダーが別に立てられ、司会者は集会全体の進行を、ワーシップ・リーダーは賛美の時間をといったように、分担する場合もある。
◆ワーシップ・リーダーは、しばしばその教会の音楽部門のディレクターであったり、専門の音楽牧師であったりする。ある教会では、ワーシップ・リーダーと言わずに、ソング・リーダーと言っているが、ワーシップ・リーダーの本来の役割は、単なる賛美のソング・リーダーだけでなく、礼拝全体の流れを導く責任を担っているのである。その意味では、プレイズ&ワーシップという礼拝スタイルにおけるワーシップ、・リーダーの存在はきわめて重要な鍵を持っているといえる。
◆とりわけプロテスタント教会の伝統では、、多くの場合牧師が礼拝の責任を担ってはいるものの、礼拝全体の流れを導くという、より直接的な務めには余り関わらないことが多い。確かに、みことばの奉仕は重要であり、そこに最も多くの労が費やされてしかるべきである。ワーシップ・リーダーを置かない教会の礼拝において、「礼拝の流れ」は一体誰が責任を持っているのだろうか? 奏楽者?、いや司会者?、それとも説教者?・・それらは三権分立のようでもあり、もしくは無責任であるかのようにも見える。
◆興味深い事に、カトリック教会や聖公会あるいはルター派といった、いわゆるリタージー(礼典)を重んじる教派においては、礼拝に信徒の「司会者」は存在せず、礼拝全体の流れを導く事、それはまさしく教職者(聖職者)の努めであると認識されている場合が多い。プレイズ&ワーシップの流れにおけるワーシップ・リーダーとは、ある意味では高度にリタージカルな存在といえよう。無論、音楽のスタイルはかなり違うものであるが、礼拝の流れを重んじる意識においては、実はプレイズ&ワーシップ・スタイルの礼拝とリタージカルなスタイルの礼拝とは共通している。
◆旧約時代のダビデの幕屋礼拝、および、ソロモンの神殿礼拝においては、きわめて洗練されたワーシップ・リーダーが存在した。アサフ、ヘマン、エタンである。彼らはいずれも偉大なワーシップ・リーダーであった。

4. 会衆賛美における<洗練性>と<大衆性>

◆「洗練された高品質の音楽や言葉」と「人々が親しみやすく心を込めやすい音楽や言葉」がある。教会での賛美において、どちらを重視するかによって、礼拝のスタイルが決まると言っても過言ではない。前者は、ワーシップ・ソングの流れを「会衆に迎合する音楽スタイル」として非難する。逆に、後者は会衆賛美における洗練されたエリート的なものを好まない傾向が見られる。
◆さらに、会衆賛美には、歌詞の分量が多いものと少ないものとがある。前者は「詩的あるいは神学的に練られている」ということが言えるし、後者は「単純で覚えやすい」という点が美点と言える。プロテスタント教会は基本的に前者を積極的に推進してきた。ルター派のコラール、改革派の詩篇歌、ウェスレー兄弟によるメソジスト賛美歌、あるいは現代の"Hymn Explosion運動”(ヒム・エクスプロージョン・ムーヴメント)、これらの代表的プロテスタントの会衆賛美歌には、プロテスタント信仰のエッセンスがぎっしりと詰まっている。そこには、歌で「説教」や「信仰告白」を(ルター派)、また「聖書の言葉そのものによる祈り」を(カルヴァン派)、さらには「あかし」や「伝道」を(メソジスト、福音派全般)しようとする態度が伺える。
◆けれども、分量の多い歌詞の歌を会衆がたくさん歌うことができるようになったのは、グーテンベルクの活版印刷により、会衆が書物を礼拝で手にするようになってからである。旧約の民も新約の民も、それほど長い歌詞の歌を歌ってはいなかったようである。古代教会以来の会衆賛美に顕著なのは、実は短い歌詞のほうである。とりわけ「アーメン」と「ハレルヤ」等の歌詞は、古代教会以来、礼拝の中で無限に繰り返し歌われてきた。長い歌詞は、訓練された聖歌隊や独唱者に委ねられ、会衆はそれを聞き、もっぱら短い言葉で何度も応答したのである。今日、カリスマ系の賛美やプレイズ・ソングの類は、しばしばその歌詞の単調さと繰り返しの多さゆえに批判される事がしばしばある。しかし、歴史的に見るならば、それだけではあまり説得力はない。むしろ両方ある方が、より「歴史的」であり、「正統的」と言えるのである。