永日
永き日の鐘と撞木の間かな 小笠原和男
永日やちり紙交換のろのろと 拙
夏至のころが一番日永なのだが、体感的にはこの頃が一番長いような気がする。
最近ちり紙交換の車がめっきり少なくなった。需要が少なくなったのか、利潤が少なくなったのだろう。
偶に来れば、依頼する家が多いのか中々到達しない。退屈な小生には日光浴をする絶好な機会でもある。
永き日の鐘と撞木の間かな 小笠原和男
永日やちり紙交換のろのろと 拙
夏至のころが一番日永なのだが、体感的にはこの頃が一番長いような気がする。
最近ちり紙交換の車がめっきり少なくなった。需要が少なくなったのか、利潤が少なくなったのだろう。
偶に来れば、依頼する家が多いのか中々到達しない。退屈な小生には日光浴をする絶好な機会でもある。
小笠原和男のことは「初蝶」同人の友人からよく話を聞いたことがある。石田波郷の「鶴」で活躍し「初蝶」の主宰となる。その友人とは一年ぐらい会っていないから現在のことは分らないけど。
「鐘と撞木の間」という言葉を用いて永き日の感じを表現している。寺の鐘楼に釣鐘も撞木もぶら下っている。撞けばごーんと鐘が鳴るのであるが、いつもは僅かの距離を開けて鐘と撞木は静かに垂れたままだ。
その僅かな距離によって寺の境内をはじめそのあたり一帯に春の日永ののんびりとした静けさが保たれている。一読してこの句からそのような印象を受けました。
永き日を特異な着眼によって詠っている句だと思います。
永日やちり紙交換のろのろと 阿部
この句では、「ちり紙交換のろのろと」という言葉で永き日の感じを表現している。最近ちり紙交換車を見かけなくなった。拡声器から口上をまき散らしながら軽トラなどの車をゆっくり運転して住宅地を回り、古い新聞や雑誌を持ってゆくとトイレットペーパーと交換してくれた。作者が『偶に来れば、依頼する家が多いのか中々到達しない。退屈な小生には日光浴をする絶好な機会でもある。』と書いているように、作者の住んでいるところでは今でもちり紙交換車がときどき巡回してくることが分る。方々の家で止まりながらそろそろと動いてくるちり紙交換車、新聞・雑誌などの束を出してゆっくりと待っている人など動きから、春の日永の感じを味わうことができる。
小笠原和男句では、「鐘と撞木の間」という静止物を材料として「永き日」を詠っているが、阿部句では、「ちり紙交換のろのろとという動きから「永き日」を詠った。また、阿部さんの句では住宅地を巡回するちり紙交換車を用いることによって、一句に社会性が付与されていると思います。
同じ「永い日」を詠っているがそれぞれ異なった印象をあたえる二つの句を読ませていただき有難うございます。 願船
小さい時から理科系が嫌いでしたので、自然観察は今も苦手なんです。三つ子の魂百までもなんでしょうね。