私は守旧派ではないが此の問題の論点は相違しているのではあるまいか。国政選挙と生徒会長選挙とでは、確かに票の重さが違うと思われる。併し同一の選挙での票毎の重さや価値に違いがあるとは思われない。買収しようとしてある人に一万、ある人には二万渡したとする。それが手違いで一万の人に知られてしまったらその人は腹を立てて警察に密告するかも知れない。但し一万の人は一票、二万の人は二票を持っていたとすれば一万の人にも文句はあるまい。併し明治にもそんな事はなかった。いはんや戦後に於いてをや。つまり同一の選挙では票同士も、戦後それを等しく与えられている有権者同士も平等なのである。
それなのに今騒ぎになっているのは、法廷も訴状の言葉に振り回され巻き込まれてしまっているからであろうか。これらの裁判では弁護士自身が原告になっており、論理に長けた弁護士に論理的不都合があろうとは考えられないから不合理な言葉が鵜呑みにされて罷り通って居るのかも知れない。私も弁護士に論理的誤謬があろうとは思われないし、誤謬のあるのを承知で弁護士ともあろうものが故意に不要の騒ぎを起こしているとも思われない。すると彼らの云う「一票の格差」は相対的な意味のそれなのであろうか。つまり格差のあるのは実は候補者や選挙区においてであり「一票の格差」はそれらを修辞的相対的に言表したものなのであろうか。論理計算でもしてみれば、此の言葉使いの正誤が明らかになるかもしれないが、あいにく私にはその能力が無い。
そこで表現の妥当性はさて置いて、候補者や選挙区のほうでは確かに「一票の格差」を感じているかもしれない。「私が当選するには百万票集めなければならないのにあそこの候補者は十万票でよいとは」と思う人が居れば逆に「あそこの候補者は百万人に頼られているのに私を頼ってくれるのは僅か十万人に過ぎない」と嘆く人も居よう。又、うちの選挙区からはあの選挙区の半分の議員しか国会に行けないとは、などとぼやく人々も居ることであろう。各選挙区への議員数の割り当てを、面積だけ考慮して行なう訳には行かない。それで良ければ話は簡単なのに現状がそうなっては居ないからである。人口だけで行う訳にも行かない。それで良ければ共産党等の云う様に全国区の比例代表制にすれば良いのであり、そうなって居ないからにはそれなりの訳がある筈である。
苟も国会議員と称せられるからには国を代表する者であるのは言う迄もない。同時に衆参いずれであれ自身の選挙区をも代表するものであることを免れない。そしてその選挙区の一部を都道府県と重ね合わせる今のやり方のある程度の妥当性は、有権者と議員双方から拒絶感を持たれていない事が保証しているように思われる。現状の始原は恐らく終戦直後にあり、その後何度か改められて来た。つまり熟慮に熟慮を重ねられて来た末に現状はあるのである。にも拘らず今改めて大きく取り上げられているのは一言で云えば、年月を経て当時の記憶が失われてしまっているからなのではあるまいか。即ちこの問題の論点は、相違しているどころか実は在りさえしないのではあるまいか。勿論時代が変わっているのだから改めて根本から考え直すべしというのも一理ある。それをするなら今度は面積も人口も厳密に数値化した上で、どこからも文句の出ない客観的な高等数学の俎上に載せて扱って、結論もそこに到る過程も完全に記録にとどめて置くべきである。我が国の優秀な官僚に任せておけば、良きに計らってくれよう。そうしなければ又数十年後に問題は蒸し返されて議論は堂々巡りする事であろう。非建設的な事此の上ない話である。
それなのに今騒ぎになっているのは、法廷も訴状の言葉に振り回され巻き込まれてしまっているからであろうか。これらの裁判では弁護士自身が原告になっており、論理に長けた弁護士に論理的不都合があろうとは考えられないから不合理な言葉が鵜呑みにされて罷り通って居るのかも知れない。私も弁護士に論理的誤謬があろうとは思われないし、誤謬のあるのを承知で弁護士ともあろうものが故意に不要の騒ぎを起こしているとも思われない。すると彼らの云う「一票の格差」は相対的な意味のそれなのであろうか。つまり格差のあるのは実は候補者や選挙区においてであり「一票の格差」はそれらを修辞的相対的に言表したものなのであろうか。論理計算でもしてみれば、此の言葉使いの正誤が明らかになるかもしれないが、あいにく私にはその能力が無い。
そこで表現の妥当性はさて置いて、候補者や選挙区のほうでは確かに「一票の格差」を感じているかもしれない。「私が当選するには百万票集めなければならないのにあそこの候補者は十万票でよいとは」と思う人が居れば逆に「あそこの候補者は百万人に頼られているのに私を頼ってくれるのは僅か十万人に過ぎない」と嘆く人も居よう。又、うちの選挙区からはあの選挙区の半分の議員しか国会に行けないとは、などとぼやく人々も居ることであろう。各選挙区への議員数の割り当てを、面積だけ考慮して行なう訳には行かない。それで良ければ話は簡単なのに現状がそうなっては居ないからである。人口だけで行う訳にも行かない。それで良ければ共産党等の云う様に全国区の比例代表制にすれば良いのであり、そうなって居ないからにはそれなりの訳がある筈である。
苟も国会議員と称せられるからには国を代表する者であるのは言う迄もない。同時に衆参いずれであれ自身の選挙区をも代表するものであることを免れない。そしてその選挙区の一部を都道府県と重ね合わせる今のやり方のある程度の妥当性は、有権者と議員双方から拒絶感を持たれていない事が保証しているように思われる。現状の始原は恐らく終戦直後にあり、その後何度か改められて来た。つまり熟慮に熟慮を重ねられて来た末に現状はあるのである。にも拘らず今改めて大きく取り上げられているのは一言で云えば、年月を経て当時の記憶が失われてしまっているからなのではあるまいか。即ちこの問題の論点は、相違しているどころか実は在りさえしないのではあるまいか。勿論時代が変わっているのだから改めて根本から考え直すべしというのも一理ある。それをするなら今度は面積も人口も厳密に数値化した上で、どこからも文句の出ない客観的な高等数学の俎上に載せて扱って、結論もそこに到る過程も完全に記録にとどめて置くべきである。我が国の優秀な官僚に任せておけば、良きに計らってくれよう。そうしなければ又数十年後に問題は蒸し返されて議論は堂々巡りする事であろう。非建設的な事此の上ない話である。