独白

全くの独白

元始、女性は

2016-10-13 14:23:14 | 日記
私の趣味はオンガク鑑賞とオンナノ鑑賞である。通りすがりに目が合うと眉を顰めて顔を背ける女性がいる。こちらも不快になる。「もう十年もすれば頼まれても誰も見なくなるのに。鬼も十八、番茶も出端というじゃないか。折角念入りに着飾り化粧して出歩いているから見てやってるんだ。厭なら隠しておけ。魅せたい相手にだけ見て貰いたいのかも知れないが、そううまくはゆくものか。」等と思う。無表情な人もいる。美女だと微笑んでいったりする。見られ付けている様子である。
私の子供の頃男の子の遊びといえば筆頭は野球であった。暇さえあれば、頭数が揃いさえすれば野球野球であった。が私は見向きもせず女の子の後ばかり追いかけて歩いていた。からかい合ったり見つめ合ったりするのが楽しくて仕方なかった。その反動もあってか年頃に成ると却って女の子に見向きもしなくなってしまった。照れや強がりの所為でも勿論あった。その惰性で今迄来てしまったが、近頃漸く素直になれるようになって来た。あの世が近付いて来たからでもある。視覚的楽しみは人間の幸福感におおいに寄与している。
汗みずくになり時には指を失うような目に合ったりし乍らも尚、山に登るのは、単にそこに自分の足で立って辺りの風景を見回してみたいからに他ならない。そこから見渡す山々の姿は、ヘリコプターで降り立った時のものとは似て非なるものであり、立ち込める霧や降りしきる雨、吹きすさぶ風さえ下界の同じものとは異なった表情をしている。
閑話休題、あの世にはあの世の美があるかも知れない。それはこの世の美と同様のものかも知れないし全く違っているかも知れない。仮に違っていて此の世の美の方が自身は好きだ、もう一度見たいと思っても、多分叶わぬ夢であろう。此の世の美は此の世で心行くまで味わって置くに如くは無い、と近頃は思うのである。そこで美女とみれば取り敢えず遠慮無く見させて戴く事にしているのである。これをいやらしいと取るのはちょっと違う。潜在意識に迄責任は持てぬが、この嗜好は飽く迄純粋に人体の形の持つ美に向けられている。これをいやらしいと云うなら、ポメラニアンや赤子を見てつい微笑みと共に覗き込んでしまう人もいやらしいという事になる。春、桜が咲いたら茣蓙迄持って見に行く等、言語道断な行為という事に成ってしまう。
擦れ違った微笑みを湛えた美女と目が合ったりすると、なんだか一瞬心が通じたような気がして心地よいものである。余りの心地よさに不作法さを忘れつい軽く会釈してしまった時に相手も軽く頷いてくれでもすると、一日幸せに過ごせるものである。オンナノ鑑賞家にとって最悪の反応は冒頭の様なものである。あまりに見られ付けていて「どう?綺麗でしょ」といった顔で行かれてもちょっと辟易するが、ぷいと顔を背けられるよりは余程好感が持たれる。そもそも男女を問わず人間というものは美にさとく、就中人体の美には魅せられる様にできている。平塚雷鳥は「元始、女性は太陽であった」と述べたが、今でも女性は立派に太陽であって、周りから仰ぎ見られるようにできているのであるから決して遠慮する事は無いのである。