以下は「うた新聞」1月号に書いたものです。
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千種創一の第一歌集『砂丘律』は、まずその風変わりな装丁から議論が始まることになりそうだ。
ペーパーバック風の薄い表紙で、判型は小さく細長い。中の紙もざらざらしていて、一見安っぽい。ただよく見ると、しっかりと紙を綴じてあり、かなり強い造本であることがわかる。
チープな印象を、意識的に模造(イミテート)している、といっていいかもしれない。
この装丁は、千種の「あとがき」に対応するものだろう。
「この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う。」
千種は、砂漠の国ヨルダンに仕事で派遣され、生活してきた。砂の中に埋もれていく書物などを見ながら、言葉とは儚いものだという実感を持ったのだろう。日本に住んでいると、言葉はなんとなく伝わっていく安心感があるが、それとは異なる厳しい環境で、独自の感覚を育ててきたのだ。
・映像がわるいおかげで虐殺の現場のそれが緋鯉にみえる
・君の村、壊滅らしいとiPhoneを渡して水煙草に炭を足す
・予備役が召集されたとテロップの赤、画面(モニター)の下方を染める
こうした戦争や暴力と膚接している日常を描いた作が、とても強い印象を残す。
虐殺の遺体を緋鯉にたとえた歌は、鮮烈な恐ろしさを伝えてくるが、それと共に心に引っかかってくるのが、「映像がわるいおかげで」という、一見軽い調子のフレーズである。
また二首目も、友人に戦争被害を教えるという非常に深刻な状況なのだが、「水煙草に炭を足す」という何気ない動作で終わらせている。
つらく苦しく、言葉がまったく無力な場面である。しかし、そこで千種は、あえて軽いタッチの歌い方で状況を捉えていく。いくら言葉を重くして嘆いても、事態は何も変えられないことを知っているからだ。
三首目も、危機感のこめられた歌。予備役まで召集されるということは、本格的な戦闘が近いのだ。しかし、それも「画面の下方を染める」というさりげないタッチで歌いとめられる。自分は異邦人という立場であり、それ以上は踏み込むことができない、という抑制がにじむ。
千種は、こうした特殊な素材を歌える立場にあるけれども、それに倚りかかろうとはしない。異国の他者の死を、自分の文学の中で扱っていいのか、という問いが、つねに心の中にあるのではないか。今まで戦争などに関わる歌を挙げてきたが、意外にそうした歌は多くない。むしろそうした素材を離れて、イメージの飛翔を探求した歌が目立つのである。
・舟が寄り添ったときだけ桟橋は橋だから君、今しかないよ
・手に負えない白馬のような感情がそっちへ駆けていった、すまない
・通訳は向こうの岸を見せること木舟のように言葉を選び
・いちじくの冷たさへ指めりこんで、ごめん、はときに拒絶のことば
他者とのつながりを、「桟橋」や「白馬」にたとえることで、はるかなものへの憧憬を生み出していて、美しい広がりをもつ歌だ。
また、通訳の体験から、言葉を「木舟」にたとえた三首目も、知的でありみずみずしい情感がある。
四首目は言葉に対する鋭い洞察が光る歌だが、「いちじく」を媒介とすることで、リアルな手触りが加わっている。
句切れが多いリズムはこの作者の特徴だが、これらの歌では、弾むような勢いを生み出している。
コミュニケーションへの希求を胸に秘めた人が、どうしようもなく言葉が無力な国に行くことで、自己を模造(イミテート)して、ある種の軽薄さもまといつつ歌うしかなくなってゆく。言葉を遠くへ届けたい願望と、砂に消えてゆく虚しさに引き裂かれている。
『砂丘律』はなかなか難解な歌集で、私もまだ十分に読み切れた感じはしないが、そうした自己の二重性に、本質が潜んでいる感じがする。
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