リベラルくずれの繰り言

時事問題について日ごろ感じているモヤモヤを投稿していこうと思います.

ヤジから逃げ回る安倍首相の発言の機会も尊重を

2017-10-10 | 政治
めずらしく政治記事(朝日新聞10月8日)で笑ってしまった.自民党が歴史的惨敗を喫した7月の都議選前日に秋葉原で行なった演説で「辞めろ」コールが起こったことが「秋葉原のトラウマ」になった安倍首相は,衆院選に向けた遊説日程を非公表にしている.それに対抗してネット上では「#国難来たる」(首相が「国難突破解散」と称したことを揶揄したもの),「#Aアラート」(北朝鮮からのミサイルに対する警報「Jアラート」をもじったもの)といったハッシュタグができて首相の動向について情報交換されているそうだ.遊説先をひた隠しにする首相に対する草の根の抵抗に心強く思うとともに,ユーモアのセンスに感心した.
だがここでは「辞めろコール」の是非をもう一度考えたい.私は秋葉原の「辞めろコール」の映像は見たことがないが,組織的に行われたものだとの説を見たことがある.(現場にいた人の「自発的だった」という見方も新聞で読んだが,あくまで一人の見解だ.)強権を振りかざす安倍首相に対して自発的に「辞めろコール」が起こったのであれば,民衆の力で独裁者を倒すドラマを地で行くような感動モノだが,運動家による計画された「辞めろコール」だったとしたら,批判の手法としては首をかしげざるをえない.(実はこの判断も難しい.50人を動員してコールすれば「組織的」だが,動員した5人が発端となって50人の大合唱となったら,それは必ずしも組織的とはいえないと思う.)
右寄りの演説をするのも,それを批判するヤジを飛ばすのも言論の自由ではあるが,組織的に計画された「辞めろコール」によって演説を妨害するのはやめるべきだ.逆の立場で考えてみるといい.リベラル系候補者の演説会で妨害コールがあったとしてもそれが言論の自由と言えるだろうか.権力者の場合,受忍すべき批判の限度が高くなるのは当然とは思うが,それにしても相手が同じことをしてきたときに許せるかどうかを考え,あまりに極端な手法は自制すべきと思う.妥協点として,演説が終わって首相側が動員した聴衆が拍手を始めたところで「辞めろコール」をするのなら,組織的な意思表示としても許されると思うがどうだろう.

追記:夕刊を見たら首相が演説日程の公表を再開したとあった.非公式の理由は「日程の最終決定がギリギリになっている」ためとのことだったが,このたび「予定が固まったため」再開したという.ただ,非公表の理由がヤジを警戒したためであることは複数の関係者が認めているそうだ.

関連記事:
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「シュプレヒコールは街宣か?」

追記2:10月18日の朝刊でこの問題が取り上げられていた.それを読んで改めて考えてみたが,講演者が言葉を切った合間などに内容に関連(反論)するようなヤジは許されるべきと思う.講演者が話している間,「辞めろ」などと叫び続けるのはやはりよくないのではないか.


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