アモルの明窓浄几

芦屋・仕舞屋・三輪宝…生噛りの話題を机上で整理します。

芦屋・桜散歩に参加して

2007年04月07日 | まちのこと
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              細雪の石碑の右側が五代目の汐見桜です

去る4月1日(日曜日)に芦屋市谷崎潤一郎記念館主催の『芦屋・桜散歩』に参加しました。
阪急芦屋川駅の花時計前を起点に北の山手から南へ流れる芦屋川の東岸沿いを南へ下り、谷崎潤一郎会館までの約三時間のコースを和田秀寿さんの名ガイドで春の一時を楽しみました。芦屋に在住の私ですが、知らないことが多く、和田さんのお話には興味が注がれました。

参加者は24名、駅前の桜橋から北の丘陵地を望むと旧山邑邸の現ヨドコウ迎賓館が観えます。山邑邸については、以前のブログで触れましたので詳細は省きますが、丁度この時期は毎年、有職雛人形を一般公開しています。

スタート地点の桜橋下を覗き見ると、昔の桜橋の橋脚が残っています。この橋脚は昭和13年の阪神大水害で流された被害の痕跡です。又、両護岸の石垣を見比べると、西岸は大水害以前からの大き目の石垣ですが、東岸の間知石積みは、阪神大水害時の被害により造り直した石垣だそうです。

今日は、谷崎潤一郎の細雪の石碑と汐見桜を紹介します。
北南に流れる芦屋川の桜橋と旧山邑邸との中間に位置する橋が開森橋です。
この開森橋の東岸南側に細雪の碑があります。その側に植樹されているのが汐見桜です。

この桜は五代目で、染井吉野だそうです。元々は、在原業平が奈良時代に現在の西山町辺りに植えたと言い伝えられています。明治時代に開森橋西詰に植えられた三代目の汐見桜は非常に有名であったそうです。
昭和時代の写真を見ると、桜見シーズンには幕が張られ出店が出ていました。この場所は野田さんという方の個人宅であった様で、桜見シーズンには見物客のために開放されていたそうです。

尚、宝塚ジェンヌ15期生の汐見洋子さんは、この汐見桜から汐見を芸名として付けられたといわれています。
余談ですが、汐見洋子さんは、1926年に入団し、1943年に退団しておられます。当時は組長もされて、大変ご活躍されていたそうです。又、今もご健在とのことです。

さて、谷崎潤一郎の作品の「卍(まんじ)」に汐見桜が描かれていることはよく知られています。
徳光光子の芦屋の家へ向かう車中での描写ですが、『…あそこに汐見桜云う名高い桜あるついその近所なんでして、電車筋からほんの五六丁ですねんけど、…』(その十一)。

最後に、(株)汐見飴本舗の汐見とは、汐見桜に因んで命名されたそうです。


↑阪神大水害で被害を受けた当時の桜橋の橋脚


↑阪神大水害以前からの西岸の石垣


↑阪神大水害後に造り直された東岸の間知石垣


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