アモルの明窓浄几

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八木晃介さんの講演を聞く

2010年07月04日 | 万帳報
昨日(7/3日)、花園大学文学部教授の八木晃介氏の講演を聞きました。
演題は、『「治療国家の殺意」とむきあう』と云う、少々刺激的な内容です。
この7月17日に施行される「臓器の移植に関する法律」の改正に伴い、脳死・安楽死・尊厳死に反対する立場からのお話でした。

改正法が現行法と大きく違うところは、脳死判定・臓器摘出の要件において、本人の生前の書面による意思表示があり、家族が否定しない事、には変わりありませんが、それに加え、本人の意思が不明の場合に家族の書面による承諾があればよいという事となりました。又、小児の場合は15歳以上であったのが、家族の書面による承諾があれば、年齢制限が無くなりました。

八木氏は、改正(悪)の骨子として、①脳死=人の死、②家族による本人意思の代行、③ドナーの年齢制限解除を挙げています。これらは、医療費抑制・削減政策であると云います。その事例の一つを紹介します。

「年間一人当たりの平均費用は、腎透析が765万円なのに対して、腎移植は28万円。透視は死ぬまで続くが、移植は一度で生着すればそれっきり」(1983年日本医学会総会・日本衛生学会での東大グループの発表)…医師が医療費を正面に掲げて移植をせまったとき、患者の自己決定は?と問う。

又、「死」は「生」のための資源かと問います。
松村外志張(ローマン工業細胞工学センター所長)氏の臓器移植には「ヒトモノ」の確保が必要とする「与死」の概念を紹介しています。

「与死は殺害と類似して、本人以外の者(あるいは社会)がある者に対して死を求めるものであるが、ここで殺害と異なるのは、本人がその死を受け入れていることが条件であるという点である…与死が尊厳死とは異なるのは、尊厳死は死を選択するという本人の意思を尊重するという考え方であるのに対して、与死は社会の規律によって与えられる死を本人が受容する形でなされる」(日本移植学会誌『移植』2005年4月)と松村氏は云う。

結局、「一定の社会的ルールのもとで生者に死の選択肢を選ばせる事を与死と云っているのだから、社会的規律による死の強制的選択を主張している以外の何ものでもない事がわかる」と八木氏は云う。更に、「脳死=人の死」の文脈が、ALS(筋萎縮性側索硬化症)や遷遷延性意識障害(いわゆる植物状態)、高齢者にも適用されると云う。

最後に、当ブログ「『税を直す』を読む」でも触れましたが、立岩真也氏の『良い死』から引用して終わります。

●日本尊厳死協会(前・安楽死協会)創始者の太田典礼氏の発言(p.48)
 「ナチスではないが、どうも『価値なき生命』というのはあるような気がする。…私としてははっきりした意識があって人権を主張し得るか否か、という点が一応の境界線だ…自分が生きていることが社会の負担になるようになったら、もはや遠慮すべきではないだろうか。自分で食事もとれず、人工栄養に頼り「生きている」のではなく「生かされている」状態の患者に対しては、もう治療を中止すべきだと思う」(『毎日新聞』1974年3月15日)

●「それ以外に『延命』を拒否する理由があるとしたら、大きいのは、周囲に迷惑をかけたくないという理由です。それは立派な心情のようにも思います。しかしそれを周囲がそのまま受け入れたら、それは『私たちのためにありがとう。どうぞ死んでいってください』と言うのと同じじゃないでしょうか。私自身には、その人が決めたとおりでよいだろうという思いもあります。けれども、最低、社会の側の問題があって、それで人が『自分が決めた』と言って亡くなっていこうとされるのを、『自己決定』だからとか言って、そのまま『どうぞ』と言うのはおかしい。尊厳死に賛成する人の多くも、負担のこと、医療や福祉にかかるお金のことで決定が左右されることはよくないことを認めます。ならば、どう考えたって、昨今の流れは順序が逆です」立岩真也(p.17)

●「大きな声で尊厳死・安楽死を肯定する人たちに何か言うのはさほど困難でないにしても、そうでない善意の人々にわかってもらうように言うのはなかなか難しい。そのわりに、護ろうとするものは単純な他愛のないものである。生きていられる間は生きていた方がよいのだろうというだけのことである」立岩真也(p.347)


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