クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

渡邊順生 チェンバロ・フォルテピアノ (3) ナネッテ・シュトライヒャー または シュタインの娘

2015-08-03 10:23:43 | 図書・映像・その他
モーツァルトの手紙
アウクスブルグでモーツァルトがシュタインのピアノに出会って惚れ込んだというのは有名な話だが、父への手紙で出てくるシュタインの娘が面白い。
「この子を見たり聞いたりして笑わずにいられるいられる人は、この子の父親と同じくシュタイン(石)に違いありません。この子は、けっしてピアノのまん中ではなく、右側に寄って座ります。それは体を動かしたり、しかめっ面をしたりする機会を多く持つためです。白眼をむき出したり、ニヤリと笑ったりします。」
当時8才半であったこの「笑わずにはいられない少女」がその後どうなったか?

ナネッテ・シュトライヒャーの登場
本書の第11章 ベートーヴェンのピアノ にあるこの小見出し、ナネッテ・シュトライヒャーこそあのシュタインの娘であった。
ナネッテは父親が92年に死ぬと工房を切り盛りして、94年にシラーの友人かつピアニストかつ作曲家かつ作家たるヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーと結婚。工房をウィーンに移し、一流のピアノ製作家として名をなしたのみならず、ベートーヴェンの世話焼き姉御として西洋音楽史を影で彩るスーパー・ウーマンとなったのであった。
”1817年には(ベートーヴェンから)ナネッテ・シュトライヒャーへの手紙やメモの類が多数残っている。その内容は、食事のこと、洗濯物のこと、病気のこと、家政婦への不満、召使の教育、使用人への支払い―相談を受ける側の忍耐力に敬服せざるを得ない”というからどんな調子が想像がつく。1817年は完成された作品がほとんどない全然パッとしない年であった。ナネッテなしではベートーヴェンはまともに生活できず立ち直れなかったのではないだろうか?そうすると第9を始めとする晩年の傑作は生まれなかったことになるわけで、ナネッテの貢献は多大である。

ナネッテの工房、その後
ナネッテのピアノ工房はその後どうなったか?近代のピアノは本書の範囲外であるから、別の本 大宮真琴「ピアノの歴史」を読んでみた。
1823年 ナネッテの息子ヨハン・バプティストが工房を継承
1859年 その息子のエミールが共同
1871年 エミールが事業を継承
1896年 工房閉鎖
ピアノが金属フレームを持つ近代工業化マシーンへと変貌を遂げる中、繊細で慎ましやかなウィーンのピアノはあらかた絶滅してしまった。
唯一残ったのがベーゼンドルファー。イギリス式のアクションを取り入れ、スタインウェイの扇状交叉弦を採用するなど劇的な改革を行いつつ、ウィーンのタッチを受け継いで現代に至るということである。

(追記)
うれしいことにNHK”らららクラシック”(2019.5.16放送)でナネッテが登場していた。
番組中で紹介されたナネッテ作ベートーヴェン用特注ピアノがこれ。

自分が弾くピアノの音がよく聴こえる様に、ピアノの上に集音のための箱がとりつけてある。
こんなピアノまで作ってくれて、ほんと、ナネッテさまさま。

シュトライヒャー夫妻のお墓はベートーヴェンのお墓のすぐ横にあると番組で映していた。
わたくしはウィーン中央墓地を訪れたことがある。

真ん中がモーツァルトの記念碑、左がベートーヴェンのお墓、右がシューベルトのお墓。
このさらに左側にシュトライヒャー夫妻のお墓もあったはずなのに、見逃していた!無念・・・


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