クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

モーツァルトの弦楽五重奏曲とブルックナーの交響曲の怪しい関係

2020-05-20 15:26:33 | ブルックナー
久しぶりにモーツァルトの弦楽五重奏曲を聴いたら、ブルックナーの交響曲が浮かんできた。
まずはモーツァルトの弦楽五重奏曲第3番ハ長調K.515。



これを聴いて浮かんできたのが、ブルックナー交響曲第7番。



弦のさざなみの中、音階の階段を昇っていく、昇りきったところで天使と戯れる水平運動、という構図がそっくり。
これは怪しい。

”そんなの、ただの言いがかりだ~~っ”と思う方もいらっしゃるでしょう。
そこで、次はモーツァルト弦楽五重奏曲第5番ニ長調K.593.



これで浮かんできたのはブルックナー交響曲第5番。



この「ド~ミソド~」というフレーズがモーツァルトの最初のチェロと全く同じ。
これはもう決定的。白昼堂々公衆の面前で抱き合っているようなもので、言い逃れできない。
そうするとモーツァルトK.593第1楽章の主題のトン、トン、トン、トンと降りてくるあたり



からはブルックナー5番の冒頭テーマが浮かんでくるし、モーツァルトのこのあたり



からはブルックナー5番最終楽章のめくるめく対位法が浮かんできたりする。
素人の思いつきとしてはこんなところですが、やはりモーツァルト→シューベルト→ブルックナーという太い血脈を感じる。
あの時代、ワーグナー対ブラームスという対立の構図があり、ブルックナーはワーグナー派と見なされていたが、
わたくしから見るとワーグナーとブラームスは北方系の同じ穴のムジナ、
ブルックナーこそオーストリア・カトリック精神の伝統を引き継ぐ後継者、
すなわち構図としては、 ワーグナー+ブラームス対ブルックナー と思われるわけです。

それにしても調性もそろそろ崩壊しかかっているというご時世に、
「ド~ミソド~」
とド迫力の全管弦楽で鳴らしてしまうブルックナーはやはりタダ者でない。
ふつうなら、
”こんなことをしたら評論家筋にバカ呼ばわりされるかも~”
とか余計なことを心配したりして、とてもできない。
ハンスリックごときに怖気づいてしまう人物像と、その巨大な音楽とが全く釣り合わないのがブルックナーの不思議なところだ。

追記
ティントナー指揮ブルックナー1番のCDでティントナー自らが書いた解説に
”the influence of Schubert in Bruckner's work is often underrated, and is perhaps more profound than that of Wagner"
とあった。
わたくしは匂いでそう感じていただけであったが、ティントナーのようなエライ指揮者と見解が一致しているところをみると、
自分の嗅覚もまんざらでもないな、とちょっとうれしかったりする。

また追記 ト短調K.516とブルックナー9番第3楽章
大久保一氏による弦楽五重奏曲ト短調K.516の解説(小学館「モーツァルト全集」第6巻)にこんな記載があった。
”(第1楽章の)第2主題は、異例にもト短調に始まる。2回の6度跳躍に続くアクセント付けられた短9度の跳躍は、ブルックナーの第9交響曲第3楽章の表出的9度を先取りしている。”

わたくしのような偏執的素人以外にもモーツァルトを聴いてブルックナーを想う方がいらっしゃったとは!
もっともわたくしはト短調のこの箇所を聴いても全然9番を連想しなかったのですが。
眼力のある方ならば、このような例はいくらでも見つけられるかも。
しかし、だからといって、ブルックナーがモーツァルトから何かを発想した、とは断言できない。
こういうものはある種の音楽共通語法、つまりfiguraのようなものかもしれない。
実際ト短調の短6度跳躍はfiguraにおけるExclamatto(叫び)でバッハの平均律Iニ短調のフーガにも表れる。

モーツァルトはト短調五重奏曲でこの「叫び」をそのまま使うだけでなく、さらに強調した短9度跳躍をもってきて「叫び」→「叫び」→「絶叫」という流れを作った。
ブルックナーも同じような発想から短9度跳躍を用いた、とも考えられる。
figuraの伝統がバロック期のみならずモーツァルトやブルックナーに受け継がれているか研究してみると面白いかもしれない。