クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

対話の音楽vol.16 三ツ木摩理x山田剛史 @2024.6.16 所沢キューブホール

2024-06-18 17:45:40 | 演奏会感想
今日はヴァイオリンとピアノのデュオと、チェロも加わったピアノ三重奏。

最初は
モーツァルト:ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ト長調 KV379
この曲の第1楽章は以下のような風変わりな構成になっている。

広々としたト長調のAdagioで曲が始まる。提示部①の繰り返しもあり、展開部②に入る。
最初が緩徐楽章というのは珍しいが、立派なソナタ形式みたいだ。
次は再現部に入るのかな~と思っていると曲調が一転して全然別の曲が始まる。疾走するト短調!
ここもソナタ形式で、提示部③と展開+再現部④があるのだが、今回は全部の反復を演奏していただけた。
(繰り返し時にはちょっとした変奏も交えて)
これはすごく良かった。
もし反復がなかったら、あまりにあっけなく終わってしまっただろう。
特に④の反復は演奏しない場合が多いが、繰り返すことによりモーツァルト特有の切迫したト短調の世界にどっぷり浸かる。
その後で、次の楽章の優美な変奏曲が始まると、心底ほっとする。

次は
シマノフスキ:≪神話≫ーヴァイオリンとピアノのための3つの詩 Op.30
実はシマノフスキのことは全く知らず、これらの曲もほぼ初聴。
(最初の”アレトゥーサの泉”のみ図書館にあった前橋汀子さんのCDで聴いておいただけ)
摩理さんの解説によると
”ポーランドの音楽会の構築を担ったひとり、シマノフスキ。ショパンのバトンを引き継ぎ、ポーランドの民族的なものを真に奥深いところで捉え、新しい音楽と融合させた芸術の確立を生涯の目的とした。”
ということですが、今日聴いた曲はショパンよりもドビュッシーの後継という印象。
ショパンもドビュッシーも全然わかってないので、あてずっぽうな感想ですが。

休憩をはさんだ本日のメイン・イベントはチェロにベアンテ・ボーマン氏をお迎えして
シューベルト:ピアノ三重奏曲第1番 変ロ長調 D898
山田氏は解説文に
”2曲のピアノ三重奏曲は、まさに神様からの贈り物といっても良い作品。この年の作品には他にも、遺作の3つのピアノソナタ、弦楽五重奏曲、ピアノ連弾のための幻想曲など恐るべき名作が並んでいてまさに壮観。”
と書かれているが、まったく同感。
ピアノ三重奏は去年は2番を、今年は1番が聴けてウレシカッタ!!
2番もそうですが、1番も巨大な曲。
室内楽のこじんまりした枠にはとうてい収まらない。
終楽章を聴いていると、ブルックナーの5番終楽章を連想。(何かを聴いてはブルックナーを連想するビョーキですが)

(おまけ)ソナタ形式の反復について
かつてはソナタ形式は時間とともに進行する音のドラマだと思っていた。
ヘーゲル哲学の用語を借りると

提示部 第1主題(テーゼ) 第2主題(アンチテーゼ)
 ↓
展開部 テーゼとアンチテーゼの葛藤
 ↓
再現部 テーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンされたジンテーゼ

という具合である。
ところが、ソナタ形式はもともとはKV379第1楽章のように提示部を繰り返し、さらに展開部+再現部を繰り返すことがふつうだった。
モーツァルト晩年の交響曲のソナタ形式楽章における繰り返しの有無について調べてみると(〇が繰り返しあり、×はなし)

38番「プラハ」 第1楽章 提示部〇 展開・再現部 ×
        第2楽章 提示部〇 展開・再現部 ×
        第3楽章 提示部〇 展開・再現部 ×

39番 第1楽章 提示部〇 展開・再現部 ×
   第4楽章 提示部〇 展開・再現部 〇

40番 第1楽章 提示部〇 展開・再現部 ×
   第2楽章 提示部〇 展開・再現部 〇
   第4楽章 提示部〇 展開・再現部 〇

41番 第1楽章 提示部〇 展開・再現部 ×
   第4楽章 提示部〇 展開・再現部 〇

という具合で、先進的な「プラハ」では展開・再現部の繰り返しは省略されているが古風な39番で復活。
41番最終楽章に至ってもなお展開・再現部の繰り返しが指示されている。
繰り返しが単に形式的なものであったなら、ソナタ形式楽章すべてに繰り返し指示があるはず。
曲によってあったりなかったりするということは、繰り返し指示がある場合は実際に繰り返して演奏してほしいと作曲家が望んでいる、と考えるのが自然であろう。

では、なぜモーツァルトはソナタ形式において各部を繰り返して演奏することを望んだのだろうか?
提示部の繰り返しはわかる。
CDもラジオのなかった時代に、ドラマの登場人物(テーゼとアンチテーゼ)をしっかり聴衆の耳に叩き込むために繰り返して演奏するのは理にかなっている。
ところが、展開・再現部を繰り返すのはいかがなものか?
せっかくアウフヘーベンして結論に至ったのに、時間軸を巻き戻して前の状態に戻すことになる。
夫婦喧嘩が収まって仲良くなったのに、また同じ喧嘩が始まったみたいだ。
曲の理解を助けるためかもしれないがどうも釈然としない、という感じをずーっと持っていた。

ところが、ある時ハタと気が付いた。
そもそもモーツァルトのソナタ形式は時間とともに進行する音のドラマなんかではない
むしろ時間の進行によって変わらないもの、地球は公転し、月は地球の周りをめぐり、地球は太陽の周りを回っている、というような永遠性を表現しているのではないか?
だから、その音楽はどこかに向かって突進しクライマックスを築く、というようなドラマ仕立てにはなっていない。
シューベルト、ブルックナーもそう。
彼らの音楽は闘争だの勝利だのという時間軸にそったドラマではなく、曲の進行とともに空間が広がっていく感じがする。
さらに考えると、「時間」にそって何かが生成し発展していく、という観念が近代人特有のもので、雅な非近代人はそんな「時間」感覚を持ち合わせていない、と思われるのだが、話が大きくなりすぎて何が何だか分からなくなるので本稿はとりあえずここまで。










モーツァルト「レクイエム」とヘンデル「キャロライン王妃のための葬送アンセム」

2024-06-10 15:19:21 | モーツァルト
モーツァルト「レクイエム」キリエの主題はヘンデルの「メサイア」And with His stripesから採られていることは比較的良く知られている。
(とエラソーに書きましたが、わたくしは数年前にBCJの「メサイア」を聴くにあたって初めて「メサイア」全曲を予習してこの事実を知ったのでした。)
しかし、クリストフ・ヴォルフ「モーツァルトとバッハ」(小学館「モーツァルト全集」10)によると「レクイエム」におけるヘンデル引用はこれだけでなく、第1曲「イントロイトゥス」の多くがヘンデルの「キャロライン王妃のための葬送アンセム」からの引用であるということだ。

「キャロライン王妃のための葬送アンセム」はこんな曲。
冒頭Sinfoniaの次、2:15より始まるThe ways of Zion do mourn and she is in bitterness. に注目。

いや~びっくりしました。まさにヴォルフの言う通り!
「レクイエム」で聴き覚えのあるフレーズがいくつも出てくる。
ヴォルフが指摘している「イントロイトゥス」でのヘンデル引用は以下のとおり。
 器楽の導入(スタッカートの付加を含む)
 「永遠の安息を」の主要主題 モーツァルト:8小節以下 ヘンデル:10小節以下
 オーケストラによる対位法 モーツァルト:20小節以下 ヘンデル:18小節以下
 ルター派の葬送コラール「わがいまわの時きたらば Wenn mein Stundlein vorhanden ist」の引用 

モーツァルトがルター派のコラールを知っていたとは考えにくいので、ヘンデルが「葬送アンセム」で引用したのを、さらにまたモーツァルトが引用したと考えられる。

「イントロイトゥス」ではヘンデルのみならずバッハ「マニフィカト」からも引用されているかもしれないと、ヴォルフは言っている。
それは「イントロイトゥス」21小節からのソプラノのソロ主題。

まさに同じメロディーが「マニフィカト」で使われている。

22:26 Suscepit Israelでのオーボエ主題に注目。
ヴァン・スヴィーテンはエマヌエルから直接入手した「マニフィカト」の筆写譜を所有していたそうなので、モーツァルトがそれを見た可能性はある。
もっともこの旋律は第9詩編唱定式という聖務日課で修道士たちが歌う旋律の一つらしいので、「マニフィカト」の引用というよりバッハとモーツァルトがたまたま同じ詩編唱定式を自作品に引用した、ということかもしれない。

いずれにせよ、モーツァルトは「レクイエム」作曲にあたって、ヘンデルらの過去作品を念入りに研究し、最高の作品を仕上げようとしていたのは確か。
「イントロイトゥス」だけでも、かくも多くの素材が緻密に結合されているのを知ると、ますます痛切に心に響いてくる。
西洋音楽史を大雑把に近代以前と以降に分けると、まさにモーツァルトこそその結節点に立っている人である、という感をますます強くした。