クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

岩城宏之 「フィルハーモニーの風景」

2021-02-15 11:09:26 | 図書・映像・その他
前回の「指揮のおけいこ」読く岩城宏之本。
「おけいこ」に比べると、これは岩波新書だしタイトルもカタそうだが、中身は同じような雰囲気で素人でもカンタンに読める。
ウィーン・フィルについて、その指揮台に立ったことがある人ならではの記述が面白い。

”彼らは大編成の交響楽曲を、弦楽四重奏と同じ態度で演奏しているのだ。”
”どの瞬間にもこれほどピタリと指揮についてくるオーケストラに出会ったことがない。おそろしいほど、こちらの棒の動きに忠実である。しかし、時々ハプニングがあった。
例えば、管楽器のソロの最中などである。ぼくの指揮の動きどおりに歌っているのだが、たまにその奏者に即興的なテンポの動きがあったり、あるいはうっかりリズムにずれることがある。ーーと、彼の伴奏をしている全員が、一瞬そちらにつけてしまう。ほんの0.01秒ぐらいにせよ、ぼくの指揮は空振りのようになるわけだ。”
”とにかく100人の人びとの合奏ではなく、オーケストラ自体がまるでひとりの人間のようなのである。”

この超高度なアンサンブル能力はどこからくるのだろうか?
理由のひとつとして、ウィーン・フィルの徹底した純血主義がある。
呆れたことに本書執筆時の1990年において、女性はダメ、東洋人もダメ。
たしか本来はオーストリア人かつウィーン音楽院出身者だけだった。それだけだと人材不足に陥るから外国人にも門戸を開放。しかし、見てくれの問題で東洋人はシャットアウトしていたらしい。
21世紀の現在、そんな性差別、人種差別が通用するはずはなく、女性も東洋人も当然メンバーになっている。
ウィーン・フィルのコンサート・マスターを退いてN響のゲスト・コンサートマスターになったライナー・キュッヒルが、楽員の等質性についてN響はウィーン・フィルに勝っている、と語っていた。
現在のウィーン・フィルが、かつてのようなアンサンブル能力を保っているのか気になるところである。

ウィーン・フィルと指揮者とのエピソードもいろいろある。

古い方から、まずはフルトヴェングラー
”フルトヴェングラーが初めて指揮したとき、かれのユラユラ、ブラブラの棒さばきを見て、メンバーの誰かが、練習が開始された途端に、
「そんな不潔な棒では、演奏できない」
と野次った。怒ったフルトヴェングラーが即座に退場し、関係修復に数年かかったそうである”
このエピソードは初めて知ったが、さもありなん、という感じがする。
フルトヴェングラーはウィーン・フィルを振る時とベルリン・フィルを振る時とで、明らかに態度が違う。
それが端的にわかるのが、グレイトの第一楽章提示部の終わりの方で、トロンボーンが遠くから呼びかけるところ。



ウィーン・フィルでは1943年、1953年ともに楽譜どおりだが、ベルリン・フィル相手だと1942年、1951年、1953年すべて赤線のように最後の音を小節をまたいで伸ばしてディミヌエンドさせている。
フルトヴェングラーとしては、神秘的な雰囲気を強調するためにベルリン・フィル型でやりたかったのではないか?
しかしウィーンはシューベルトのお膝元。
オレはシューベルトの書いた楽譜どおりに吹くぞ!とトロンボーン奏者に凄まれて、フルトヴェングラーが引き下がったのかも。
グレイトについてはこの箇所だけでなく、曲全体の態度がウィーン・フィルとベルリン・フィルでかなり違うので、オケの音色とのかね合いとか深い理由があるのかもしれない。

次はフリッチャイ。この人はかわいそうだ。
”練習のときなど、ひどかった。ガヤガヤ、ガヤガヤしていて、指揮者の要求など、だれも聞いていない。弦の後ろの方では、サンドウィッチを食べている楽員がいる始末だ。
ウィーン・フィルは自分たちの定期演奏会の指揮者を、投票で選ぶ。だが、時には経済原則に従い、大スポンサーであるレコード会社の圧力に屈することもある。押し付けられた指揮者には、こういう態度をとる。”

反対の例が、クナッパーツブッシュ
”尊敬するとなると、これがまたスゴイのだ。ハンス・クナッパーツブッシュが練習場に入って来たときは、全員が立ち上がって老巨匠を迎え、マエストロが苦笑いしながら何度制止しても、歓迎の拍手を数分間続けたのだった。”

カラヤンともいろいろありました。

”ぼくはウィーン・フィルとカラヤンの、何度目かの喧嘩の最中の仕事に、居合わせたことがある。歌劇「フィガロの結婚」だった。”
”バルトロのアリアで、事件が起こったのだった。指揮者は通常、このアリアを1小節2つに振る。つまり2分音符単位だが、メトロノーム90ぐらいだろう。あらかじめ企んでいたらしいが、ウィーン・フィルはその一拍を4分音符として演奏し始めたのだった。可哀想なのはバルトロである。テンポが2倍のろいのだから、歌にならない。オーケストラはニヤニヤしながら弾いているし、指揮者は知らぬ顔で、すましていた。”

喧嘩はまだまだ続きます。
”次の朝は、定期演奏会の練習だった。ベートーヴェンの「交響曲第7番」である。第二楽章のテンポを、カラヤンはかなりおそく演奏したい様子だった。伝統的なテンポより、相当にゆっくりなので、オーケストラは抵抗した。何度もやり直し、やっと彼の思い通りのテンポになった。”
この練習の後の、本番はどうなったか?
”第2楽章は4分の2拍子のアレグレットで、冒頭は木管群と2本のホルンによるイ短調のアコードの2小節である。これがディミヌエンドして、弦楽器のテーマが始まる。
普段カラヤンは、最初の2小節のビートをしない。短いフェルマータのようにイ短調のハーモニーを保つだけで、それから美しくマルイ動作で弦楽器群を導きだす。
彼が最初の2小節をはっきり1・2、1・2と振ったときには、思わずニヤリとしてしまった。昨日のいきさつを知っているからである。メトロノーム68ぐらいのテンポで押し切るつもりだったのだろう。ところが、第3小節からのテーマ演奏に、びっくり仰天した。カラヤンの棒とは全く関係なく、もっと早いテンポ約90で、整然と音楽が流れだしたのだ。彼もさるもので、その瞬間まるで自分が望んだかのように、オーケストラに合わせて優雅に指揮していた。完全にカラヤンの敗けだった。”
帝王カラヤンといえども、ウィーン・フィルの団結力にはかなわないのである。

そして、最晩年のベームとの関係は何と言ったらいいのか・・・
名演として知られる日本でのグレイトの演奏会の後、
”ウィーン・フィルの楽員何人かとオーストリアワインの店に行った。乾杯を繰り返し、ぼくはシューベルトでの興奮、ベームの偉大さを夢中になってしゃべった。楽員たちはヘラヘラ笑っているだけなのである。意外だった。ひとりがクールな感じで言った。
「あのジイさんの棒の通りに弾いたらエライコトになるんだぜ。もうすっかりモウロクしているからテンポは延び放題だし、手がブルブル震えっぱなしで、何がなんだかわからないんだ。でもとにかくエライ指揮者だし、いや、偉大なひとだったんだから、お客さんの期待と感動に水を差さないように、おれたちがカバーしてやってるのさ。苦労するよ。ショウバイ、ショウバイ」”

このような事例を知ると、いったい指揮とは何なのか、考えざるをえない。
楽曲の基本テンポぐらい指揮者が決めるものだろう、と思っているとカラヤンですらカンペキに無視されたりする。
そうすると、テンポやアンサンブルをそろえる等は枝葉末節、指揮者の最大の仕事は、楽曲で表現したい「思い」を楽員と共有すること、と言えるだろう。
ベートーヴェンの第7第2楽章は4分の2拍子のアレグレットだから、人の歩みを想起させる。
もちろん軽やかな歩みではなく、引きずるような葬列の歩みだ。
初演当時の状況を思い浮かべると、度重なる対仏戦争での戦死者の弔いの音楽に聴こえてくる。
しかし、カラヤンはそんな重苦しいことはきれいサッパリ忘れて、流麗な緩徐楽章にしたかったのかもしれない。
ところが、カラヤンにとっては不幸なことにその「思い」は楽員と共有できず、本番で無視されるに至った。
おおぜいの楽員の共感を得るには、指揮者は己の人間性すべてをさらけ出さねばならない。
やはり指揮者というのは、たいへんな職業だ。