クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

岩城宏之 「指揮のおけいこ」

2021-01-26 17:18:48 | 図書・映像・その他
グレイトのエンディングについて以前書いた記事に、岩城宏之氏が同じトピックを論じている、とのコメントを頂いた。
氏は多くの著書があるが、実は一冊も読んだことがない。
白状すると、氏の指揮もまったく聴いたことがないのである。
一応クラシックファン歴かれこれ数十年、これではいくらなんでも偏狭すぎる、と我ながら思ったので、まず「指揮のおけいこ」を読んでみた。

指揮者というショーバイが精神的にも肉体的にもたいへん過酷なのには驚いた。
1年のうち11か月以上、ホテルからホテルへ転々という放浪暮らし。
首の骨一本を削るといういかにも危険そうな手術もしている。
が、もっと驚いたのは、1956年23歳でN響に指揮者デビューする前にやった指揮の「勉強」方法。

曲はチャイコフスキーの「悲愴」。何をやったかというと
①「悲愴」のLPを全部買った。(メンゲルベルク、フルトヴェングラー、トスカニーニ、カラヤン等9種類も既に出ていた。)
②「悲愴」は6番だから、それぞれ6回ずつ聴いた。
③ トスカニーニが一番グッときたので、トスカニーニそっくりにやろう、と決心した。
④ 毎晩5回、トスカニーニのLPをかけガラス戸に映る自分の姿を見て指揮をする、というのを半年間続けた。
以上である。

その結果は、
”半年間、あれほどトスカニーニそっくりにやろうと、涙ぐましい勉強をしてきたのに、結果は無残だった。第一、テンポが似ても似つかない。”
とのことでした。

かような「勉強」をしても何にもならないことは、ど素人のわたくしでもわかる。
だが、クラシック音楽受容も浅い当時の状況では仕方なかったのかな、と思う。

ところが、現代においても
”本物の指揮者になりたいと、音楽大学で学んでいる若者の多くが、指揮の勉強のためにスコアを詳しく読みもせず、CDで踊り狂ってばかりいる。そういう連中のことを知れば知るほど嘆かわしいのだ。”
と書かれている。
マジか!?
プロを目指す音大の学生諸君が、そんなバカげたことをやっているとは信じがたい。
他人の演奏なんかどうでもよい。
岩城氏が書いているように”自分が再現したい理想の演奏を、ひたすら「思う」”ことの方がよほど重要なのに。