クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

大宗教音楽家モーツァルト(3) レクイエムを予告する超傑作 「聖体の祝日のためのリタニア」変ホ長調 K.243

2020-02-12 15:01:06 | モーツァルト
モーツァルトが20歳の時に書いた「聖体の祝日のためのリタニア」(「聖体連禱」とも「聖体の秘蹟のための連禱」とも呼び名いろいろ)変ホ長調K.243はあの「レクイエム」を予告する超傑作である。
ゆるやかな前奏に続いて独唱が入ってくる冒頭(ここだけで名曲たることが確信できる)、その後に続く極めて多彩な楽曲群、それでいて最後に冒頭の曲が戻り円環を閉じるゆるぎなき統一感、などはみな「レクイエム」を想起させる本曲の特色である。
が、さらに直接的なのは、第二曲の冒頭

これは、どこからどう見てもレクイエムのTuba mirum「不思議なラッパの音」だ。
これが偶然の一致とは思われない。

モーツァルトは最晩年に宮廷副楽長(宮廷内の教会音楽を司るポスト)任用の請願書を出したが不首尾に終わった。
その後に請願した聖シュテファン教会副楽長のポストは無給ながら手にいれて、将来の楽長就任へのチャンスをつかむ。
これらの就職活動は、フリーの音楽家としての活動が行き詰まり金欠に陥ったモーツァルトが何でもいいから固定給をもらえる定職につこうとあがいているのかと思っていた。
ところが、それは大間違い。モーツァルトは本気で教会音楽家になろうとしていた

モーツァルトはキリエやグローリアの断片をいくつか残しているが、それらは自筆譜の紙質研究により1787年以降の晩年に書かれたことが明らかになった。
あの強烈な「キリエ」ニ短調K.341も自筆譜が行方知れずで確証できないが、晩年に書かれたものと推測されている。
当時の作曲家が、演奏されることが期待できない曲を作曲するのは異例で、教会音楽家として立つべく準備していたに違いない。

また、モーツァルト没後にコンスタンツェが
 ”夫はいつも教会音楽を書きたがっていました”
と証言している。(以前、何かの本で読んだのだが、今となっては出典不明)
コンスタンツェは、モーツァルトが没後に神格化されても、あることないことを言って自己を飾り立てるようなことは(私の知る限り)一切していない。
そんな正直者コンスタンツェの証言だから、これは真実だろう。

モーツァルトはオペラ作曲家のイメージが強いが、晩年になるにしたがいオペラ的な人間ドラマ、愛し合ったり憎み合ったり、というようなことに興味を失って、俗世を超越した音楽を書きたかったのではないだろうか?
そんなモーツァルトに「レクイエム」の注文が来た。
15年前に書いたリタニアも思い起しつつ、作曲に心血を注いだに違いない。
もし「レクイエム」が完成していたらどのような曲になっていただろうか?
リタニアK.243やロレートのリタニアK.195から推察するに、終曲は冒頭の回帰に始まるがジュスマイヤー版のようにキリエでは終わらず、奇蹟の転調を遂げて死者の魂に永遠の安息を与える祈りの楽曲となったであろう。

モーツァルトが没した35歳というのは、現代から見ると早死だが、当時としては十分長生きだ。
それまでに残された膨大な楽曲、最後に到達した「魔笛」や「レクイエム」を聴くと、「レクイエム」の未完は惜しいが、何となくやり切った感があるのかな、と思っていた。
が、全然やり切っていない!!
もし、モーツァルトが生き永らえて聖シュテファン教会の楽長となっていたら、「魔笛」の響きを持った至福の宗教音楽を人類は手にしていたに違いない。
かえすがえすも残念なことだ。


聖マルクス墓地のモーツァルト記念碑(墓ではない)
中央墓地に比べ訪れる人も少なく、もの悲しい雰囲気


追記
最近読んだモーツァルト本で、モーツァルトのカトリック信仰についてまったく背反する記述に出会った。

ひとつは池内紀「モーツァルト考 第5章オペラの誘惑」で、対話するA,Bともに池内氏の分身。
”B モーツァルトの音楽を聞いていると、つねに教会音楽、西洋のいわゆるカトリックの世界が必ず浸透していて根づいている、生活のベースとしてのカトリックの文化というものがモーツァルトのなかにはあるような気がするんです。
A それはぜんぜん気がつかなかった。気がついてもわからない部分だけれども。まさにそこで育った人だものね。カトリックというのはとにかく文化の集積ですからね。モーツァルトの根っこのところにあるカトリック、そういうものはあまり理念づける必要はないけど、おもしろいですね。モーツァルトの音楽を聞いてると、人間というものがすべて許されているんだなという感じがしますでしょう。こちらの感じ方が正しければ、カトリックのなかにそれがあるんじゃないかな。”

もうひとつは礒山雅「モーツァルト=翼を得た時間 Ⅷ死と救済」で、以下のような記述がある。
”われわれは、父レーオポルドが熱心なカトリックの信者であり、モーツァルトも、その影響の下に、礼拝に通いながら成長したことを知っている。モーツァルトは、礼拝での教えや聖書から、死や救済への確信をえることはなかったのであろうか。
どうやらなかったらしいのである。”
大ミサ曲ハ短調については
”ミサ曲を構成する五章のうち、モーツァルトが一応完成したのは<キリエ>、<グローリア>、<サンクトゥス>(および<ベネディクトゥス>)の三つで、<クレド>と<アニュス・デイ>は完成されなかった。(中略)モーツァルトは、受難と復活の教義を述べたテキストに、創作意欲をかきたてられなかったにちがいないのである。これはバッハがこのくだりを典礼文の核心として重んじ、《ミサ曲ロ短調》の感銘深い中心としているのとは相反する態度である。”

池内氏の記述は、わたくしが前稿で主張した暴論「モーツァルト全作品=宗教音楽説」と相通じるところがあり、ナットク。
一方の礒山氏の言い分は承服いたしかねる。
大ミサ曲ハ短調の完成されている部分には並々ならぬ信仰心があふれ出ていることは、ド素人のわたくしでもわかる。
注文でなく自発的にミサ曲を作曲する、ということがそもそも異例であり、モーツァルトの深い信仰心の現れと考えざるをえない。
それが未完成に終わったのも、Et incarnatusを聴けばわかる。
コンスタンツェが歌ったであろう天上のソプラノの後に、いかなる音楽が続けられるであろうか・・・

信仰とはまるっきり無縁な現代日本人が、カトリック圏で育った18世紀人の心のうちを想像するのは難しい。
にもかかわらず、音楽は直接何かを魂に訴えてくるのは不思議である。

追記
ジュピター音型の小クレドミサ曲K.192のサンクトゥス冒頭

ここの第1ヴァイオリンの音型はモーツァルトが書いた「レクイエム」Hostias冒頭の第2ヴァイオリンの音型と同じ。
わたくしはやはりK.192のこの箇所で「レクイエム」を連想してしまう。
K.192のアニュス・デイもニ短調で胸を締め付けるような切迫感があり、「レクイエム」に通じるものを感じる。
これらは偶然なのか、そう思って聴くゆえの思い込みなのか。

またも追記
ジル・カンタグレル「モーツァルトの人生 天才の自筆楽譜と手紙」はサブタイトル通りモーツァルトの自筆楽譜及び自筆書簡を多数収めたイケている本だが、そんなイカシタ本にもこんな記述がある。
”モーツァルトがザルツブルグで過ごした最後の頃に書かれた曲の中で作曲家独自の味がもっとも出ているのは、キリスト教信仰の音楽的表現と言える作品だ。”
全く同感です。ところがこの後に
”ウィーンでは、宗教的なインスピレーションは枯れてしまったように見える。新しい生活環境で、オペラに関心を寄せ、まもなくフリーメイソンに入会して、カトリックの典礼音楽への関心は薄れた。”
と書かれているが、まったくそうではないことは「レクイエム」の完成部分だけでも明らか。
人がいったんある固定観念に陥ってしまうと、なかなかそこから抜け出せない典型例のように見える。