クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

小山実稚恵&川本嘉子 @2022.7.16 所沢ミューズ マーキーホール

2022-07-17 17:53:47 | 演奏会感想
昨日行った演奏会はこちら。

曲目は最初がピアノ・ソロ。
シューベルト晩年の即興曲より
 D.935の2番目 変イ長調
 D.899の2番目 変ホ長調
 D.899の3番目 変ト長調
次がヴィオラとピアノのデュオでブラームス最晩年の
 ヴィオラ・ソナタ 第2番 変ホ長調
 ヴィオラ・ソナタ 第1番 へ短調
でした。

シューベルト・ファンのはしくれながら、D.899もD.935もまともに4曲セットとして聴いたことがなかった。
ソナタのCDの余白にあったリヒテルのD.935の2番目や、カーゾンのD.899の3,4番目を聴いたぐらい。
この演奏会の前にキチッと聴いておかねばならん、と思ったので、図書館から
ルプー、内田光子、ツィマーマン
のCDを借りて聴き比べてみた。
ルプーはどこかに行っちゃいそうな詩人、
光子さんはスケールが大きいが女性らしい細やかさも感じたり、
対照的にツィマーマンは男のピアノ、と皆さん三者三様の個性がハッキリ出ています。

では小山実稚恵さんはどうかというと、ステキな少女でした。
もちろん幼いとかそんなのではなくて、少女の魂を核に持っていらっしゃるということです。
その魂を今後も持ち続けてほしい~~
(そんな風に感じるのもこっちがジジイ化しているからかもしれないが。)

ブラームスも肩に力が入ったりすることが全くない自然な演奏。
川本嘉子さんの深々としたヴィオラの音色がさすがでした。
お二人の息もピッタリで素晴らしかった。

アンコールは
ブラームス F.A.Eソナタの第3楽章スケルツォ
カザルス  鳥の歌
グノー   アヴェ・マリア
の豪華3本立て。
F.A.Eソナタは全然知らなかったのだが、ブラームスはごく若い時から自分の歌を歌っていたと分かった。

国内コロナ新規感染過去最多という中、本演奏会が無事開催されて本当によかった。




アロイジアのその後

2022-07-07 13:16:29 | モーツァルト
モーツァルトは歌姫アロイジアに熱烈な恋をしたがあえなく失恋。
アロイジアは俳優ランゲと結婚し、モーツァルトは結局アロイジアの妹コンスタンツェと結婚。
ということは、モーツァルト好きは誰でも知っている。
モーツァルティアンを自称するくらいの方ならば、モーツァルトの死後コンスタンツェは悪妻の汚名を返上。
デンマークの外交官ニッセンと結婚し「モーツァルト伝」を書かせたことも知っているであろう。
では、アロイジアのその後は、となると
ハテ?
と、なってしまう。
わたくしもその口だったが、田辺秀樹「プリマ・ドンナ、アロイジア」(小学館「モーツァルト全集 11」)にアロイジアの消息が書いてあったのでご紹介する。

モーツァルトとアロイジアの最初の出会いから時系列で整理すると
1778年1月 モーツァルト(22歳)、マンハイムでアロイジア(18歳)と出会う
   12月 ミュンヘンでアロイジアと再会し求婚した(らしい)が、アロイジアは拒絶
1780年10月 アロイジア(20歳) ウィーンで俳優ヨーゼフ・ランゲ(29歳)と結婚
       ランゲは死別した前妻との子供2人を連れての再婚
1781年4月 モーツァルト ウィーンのウェーバー家に転がり込む(アロイジアが結婚前に使っていた部屋?)
1782年8月 モーツァルト(26歳)、コンスタンツェ(20歳)と結婚
      アロイジアは1781年から89年までの9年間に7回の出産
1791年3月4日 モーツァルトが出演した最後の演奏会でアロイジアと共演
   12月5日 モーツァルト没(35歳)
1795年 アロイジア(35歳) ランゲと別居(ランゲの度重なる不倫が原因らしい)
     アロイジアは歌手活動を継続し、ヨーロッパ各地で出演
      「後宮」のコンスタンツェや「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・アンナが当たり役
1809年 コンスタンツェ ニッセンと結婚
1820年 コンスタンツェ ザルツブルクに転居
1828年 「モーツァルト伝」出版
1829年 ノヴェロ夫妻、モーツァルト巡礼を行いコンスタンツェ、アロイジアと面談
1839年6月8日 アロイジア ザルツブルクで没(78歳)
1842年3月6日 コンスタンツェ ザルツブルクで没(80歳)

アロイジアは歌手としては華やかに活動したが、結婚生活は不幸に終わった。
アロイジアがいつ現役を引退したのか不明だが、最後にザルツブルクに住んだのはコンスタンツェを頼ってのことだろうか?
コンスタンツェは急速に高まったモーツァルト称揚の中、モーツァルト未亡人として尊敬され財も成したはず。
姉妹の境遇の違いを晩年のアロイジアはどう感じていたのだろう?
1829年のノヴェロ夫妻のアロイジア訪問についての田辺氏の文章を引用させていただく。

”当時68歳になっていた彼女は、老いてなお音楽のレッスンで生計を立てなくてはならない境遇を嘆きながら、モーツァルトの息子(フランツ・クサヴァー・ヴォルフガング)を「自分の子供たち以上に愛している」と語った。ノヴェロ夫人の報告はさらに続く。

彼女(アロイジア)は言った。
ーモーツァルトは死ぬまで私を愛してくれていました。
 そのため、妹は少し嫉妬したことがあったかもしれません。
なぜモーツァルトの求婚を断ったのですか、と私がたずねると、彼女は理由を言うことができなかった。
ー父親たちは双方とも賛成していました。
 でもあの頃は彼を愛する気持ちになれませんでした。
 かれの才能も、その愛すべき人柄もわからなかったのです。 
 後になって、そのことを後悔したのですが・・・。

「モーツァルトは死ぬまで私を愛してくれていた」ーそれは、あるいは、老いたるプリマ・ドンナの勝手な思い込みにすぎなかったかもしれない。
しかし、晩年のアロイジアがそう確信していたという事実を構成に伝えてくれた、この貴重な報告を読む時、筆者は、なにかこう、胸の熱くなるような感慨を覚えずにはいられないのである。”

わたくしも田辺氏と同じくなんとも言いようのない感慨を覚える。
ノヴェロ夫妻の巡礼記は「モーツァルト巡礼―1829年ノヴェロ夫妻の旅日記(抄訳) 」として出版されたが、とっくに絶版らしい。
生身のモーツァルトと接した人々の貴重な証言だから、ぜひ復刊してほしい。


1820年頃のアロイジア