クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

所沢バッハ・アカデミー シューベルト「ミサ曲第6番」 ハイドン「ネルソン・ミサ」@2024.7.15 所沢アークホール

2024-07-25 15:39:53 | 演奏会感想
所沢バッハ・アカデミーの第37回定期演奏会。
曲目はミサ曲2本立てで
シューベルト ミサ曲第6番 D.950
ハイドン ネルソン・ミサ HoB.XX11:11

最初に演奏されたのはシューベルト。
先月はピアノ三重奏の1番、今月はミサ曲第6番とシューベルト晩年の傑作を立て続けに聴くことができてウレシイ。
静謐なキリエから親しみやすい美しさと底知れない深遠さが同居するシューベルト世界にどっぷり浸かり、正気を失った。
1時間近くの大曲であるが、ひたすら感動の連続!
そんな中で、感動の極致を一点だけ挙げるとすると、やはりアニュス・デイだろう。
冒頭はアニュス・デイというより「怒りの日」を思わせる。

ここを聴くと、どうしてもシューベルト自身の死への恐怖を感じざるを得ない。
この旋律はどこかで聴いたことがあると思っていたが、バッハの平均律第1巻4番嬰ハ短調のフーガを引用しているとのこと。
なるほど。このフーガは5声2/2拍子で極めて厳格な雰囲気。バッハの主題もグレゴリオ聖歌か何か古い音楽の引用を思わせる。
恐怖のアニュス・デイも、次のdona nobis pacemに進むと平安が訪れる。

独唱も加わり、普通ならこれで平和に終わるところ。
ところが、なんということか!平安は無残に断ち切られ、恐怖のアニュス・デイが戻ってくる!!
こう来る、と分かっていても戦慄せざるを得ない。
そして恐怖がクライマックスに達した瞬間にdona nobis pacemに切り替わるところは、もう表現のしようがない。
ここで感動しない人は音楽にはご縁がないのでは、と言いたくなるような感動ポイントである。

こちらは自筆譜最初のページにあるシューベルトのサイン。

1828とはっきり書いてあるが、かくも偉大な傑作を書き上げた年に世を去ることになると、シューベルト自身も含め誰が思ったであろうか。

かくしてシューベルトが終わると放心状態に陥り、休憩時間もミサ曲が鳴りっぱなし。
次のハイドンも名曲中の名曲なのであろうが、シューベルトでぐったりしてしまいどうも身が入らない、というのが正直なところであった。
フルコースの後に折詰弁当が出てきたような感じなので、やはりハイドン→シューベルトの順番の方が良かったかも。
それにミサ曲ダブルヘッダーはやはりキツい。
典礼としても変な気がするので、レジナ・チェリとかリタニアとか別の曲とミサ曲を組み合わせるのが良さげに思う。

と、まあ、つべこべ書きましたが、素晴らしい演奏会でした!!








「ルイージの指揮講座」を見て思ったこと

2024-07-24 12:55:28 | 図書・映像・その他
ファビオ・ルイージが東京芸大指揮科の学生たちを指導する様子が2週にわたって放映された。
ルイージの指導はまことに的確と思えた。
2年生君は視線の力があるのに、つい楽譜を見てしまい、オケとのコミュニケーションが途絶えてしまう。
元声楽志望君は、さすが歌心があるのに、左手でせっかくつかんだ何かをすぐに離してしまうくせがある。
このような”ごもっとも”という指摘は、学生諸君にとってたいへん有益に違いない。

しかし、どのようにしたら改善できるのか、その方法まで教えてしまって良いのか少々疑問にも思った。
本当はじっくり時間をかけて
”なぜ、オーケストラはオレの思いどおりに演奏してくれないのだろう?”
と本人が悩み苦しみ、自分独自の方法を見出す方が良いのではなかろうか?
現代はなんでも急ぎ過ぎる。
指揮者も野菜も促成栽培では決して真にウマいものにはならない。
「若き天才」とか言うとウケるし、チケットも売れそうだから、すぐにメディアが持ち上げる。
そうやってキャーキャー騒がれると、アッという間にせっかくの才能も擦り切れて賞味期限が切れてしまう。
グールドはそんな危険を察知してか、さっさと退却。
もっと最近の例だと、ハーディングは1年のうち指揮者を半分、パイロットを半分にしているそうだ。
コクピットの中で孤独になる時間が必要になったのだろう。

ルイージは本当に良い人で親切だ。
(ちなみに、きたる第2016回N響定期公演ではブルックナー8番初稿を取り上げるという大快挙!)
まあ、でもその親切心がアダにならないように、また学生諸君は焦らずじっくり音楽に向かい、死語になりそうな「大器晩成」を目指してほしい。

(おまけ)フルトヴェングラーの指揮する「ティルオイレンシュピーゲル」
今回の講座で取り上げた曲のひとつは「ティルオイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」。
この曲はフルトヴェングラーの指揮姿をおさめた貴重な動画がある。

この指揮姿を見てルイージがなんて言うか、というのはちょっと意地悪な想像かな?
素人目線で思ったことを3つほど挙げると
①上体は完全にリラックスして肩に力が入っていない。一方で、体全体にダンサーのいう「トーン」がある。これによって、柔軟でなおかつ一本ピーンと筋の入った音楽が生まれている。
②右手と左手がそれぞれ別の作用を担っている。そのため、よくある左右対称の動きより指揮から伝わる情報量がはるかに多い。
③細かい節回しはやたらと指示を出さず、奏者に任せている。そのため奏者が自主的に音楽を奏でられる。
こういうところは学生諸君も大いに参考にできるのでは?
それにしてもなんと高雅な響きなのだろう!!
どうしたらこの響きがうまれるのか??
ベルリン・フィルのティンパニ奏者テーリフェンの証言によると、ある客演指揮者の練習中フルトヴェングラーがホールに現れただけでオケの音色が一変した、という。
こうなると、棒の振り方云々という話ではなくなってくる。
指揮者の人格がそのまま響きとなるのか?
だとしたら、楽譜を見てお稽古していてもはじまらず、滝に打たれたり、災害地に行ってボランティアしたりする方が大指揮者への近道なのか?
そのあたりはまったくのナゾである。