クラシック音楽徒然草

ほぼ40年一貫してフルトヴェングラーとグレン・グールドが好き、だが楽譜もろくに読めない音楽素人が思ったことを綴る

ブルックナー 交響曲第8番 ハ短調 初稿 ―20世紀を先取りした前衛

2015-02-15 16:19:13 | ブルックナー
ブルックナーの交響曲第8番ハ短調を初めて聴いたのは既に30年以上前。当時お決まりの名盤クナッパーツブッシュ/ミュンヘン・フィルのLPを勇んで聴いてはみたものの、クラシック初心者でしかもブルックナー初体験であったから理解できるわけもなかった。Ⅳ楽章の出だしには、”今まで聴いたことのない凄い曲だ”と圧倒される感覚をもったが全体は長すぎてさっぱりわからない。その後繰り返し聴いているうちにだんだん魅せられてきて一時は良く聴いていた。しかし、あまりに巨大・重厚というイメージが染み付いてしまい、ここ10年ばかりは敬して遠ざけるという状態になってしまった。むしろ1番、4番(初稿)、5番、7番、9番(最終楽章付き)などにそれぞれ熱中したりしていた。ところが最近8番の初稿を聴いているうちに、この曲のイメージが全く変わってしまった。従来の巨大・重厚といったものから20世紀芸術を先取りした極めて前衛的な作品と思うようになったのである。

 8番の初稿は概して評判が悪い。金子健志「ブルックナーの交響曲」(ちなみに本書はブルックナーの版問題に関し単に歴史的な事柄だけでなく音楽がどう変わったかを詳細に論じており、ブルックナー・ファンにとってはたいへん興味深い内容。4番Ⅳ楽章コーダの変遷を楽譜付きで示してくれているところなど初稿の楽譜なぞ見たこともない素人にはウレシイ。朝比奈隆との対談もリラックスした雰囲気で楽しめる。)においても、初稿についてかなり否定的な論調である。特に問題となるのが第2稿で削除されたfffで終わる第Ⅰ楽章コーダで、これは「人間的な苦悩の世界の上に絶対的な神の王国が輝いているのだという、いかにもカトリック教徒らしい信仰告白」であるが「その場しのぎの安直なハッピーエンド」になりかねない、そのコーダを削除することで「全4楽章が明確な起承転結を備えた音のドラマとなった」。その結果「<神々の黄昏>の終景の高みに達した初めての交響曲」になったとしているから、第2稿への改訂を高く評価しているのは間違いない。一方、金子氏は同書の中で、ロマン派の作曲家が文章の論理や方法論を音楽に取り入れたのに対しブルックナーは「文学的な志向が全く無かった」とも書かれている。では、なぜ文学志向のないブルックナーが起承転結という小説的な構造を持つと受け取れるようにわざわざ8番を改訂したのか?やはりブルックナーも時代の子、他のロマン派作曲家が多かれ少なかれ大衆受けを狙ったように当時の聴衆に理解されやすいうようにやむなく俗化したのではないだろうか?

 そもそも初稿と第2稿がどのように異なっているのか楽章ごとに比較してみる。
第Ⅰ楽章 この楽章は「死」の雰囲気が濃厚である。ワーグナーの死によるブルックナーの衝撃は現代人の想像をはるかに上回るものだったに違いない。その時、それまで篤い信仰心により隠匿されていた「死」が自分自身の問題としてにわかに沸き起こってきたのではないだろうか?アーノンクールがモーツァルトのレクイエムの解説文で書いている言葉を借りると「死は誰にでも一度は訪れる。―だが私は一体どうなるのか!」というような問い。「死」と向き合ったときのおそれやおののきが初稿ではとりわけ強く感じられるのである。そのような何かを問いかけ、訴えるような痛切な感情が赤裸々に表現されている箇所をブルックナーは第2稿で表現を弱めたり削除したりしてしまった。第1主題の提示部、主題の上昇音型からして何かを問いかけているようであるが、ティンパニの使用が控えられ透明感の高い音響となっている。そのため、各パートの音のぶつかり合いがより明確で音響としては小さいのに、より激烈な表現と感じる。第1主題の再現は第2稿でもぼやかされているが、初稿では伴奏音型が強くさらにぼやけている。この箇所は音楽の方向性が一層あいまいになり虚空をさまようブルックナーの魂のようだ。この後小さい変更であるが、第2主題の再現の最後のところ、懇願するような音型が初稿ではダメ押しのごとく繰り返されて(譜面参照。半音上げてffの指定まである)ハッとさせられる。



再現部の終わり、ここでもティンパニが使用されないために音響がクリアとなり上昇音型と下降音型のせめぎあいが激烈で胸が締め付けられる。このような音響の延長線にあの世からの音のような第9の世界があるのが予感される。そして問題のコーダ。初稿では死の時を刻むppからいきなり「ハ長調に転じて輝かしく終わる」(金子)ということであるが、私には初稿のコーダが明るくも輝かしくも聴こえない。あの揺るぎない5番のⅣ楽章コーダは信仰告白、天国へ昇るような上昇音型を持つ7番のⅠ楽章ないしⅣ楽章コーダは神の賛美とみなせよう。それに比べるとこのコーダは痙攣的発作的で、最後に繰り返される下降音型が旧約聖書的な神の威圧を感じさせる。俗っぽいイメージで表現すると、死の床に横たわる人間が突然カッと目を見開いて何かを訴える、という感じか。したがってこのコーダが唐突に聴こえるのは当然で、むしろそのような発作的な心の動きを音楽化したものと考える。このような突然の跳躍や極端に異質なもの並べて提示することは20世紀芸術で現れてくるものであり、ブルックナーははるかに時代を超越していた。そのため、同時代人が理解できぬもの、とみなして削除したのであろう。

第Ⅱ楽章 この楽章はトリオが全部書き換えられている。元になる楽想は同じだが、初稿がAllegro moderatoに対し第2稿はLangsam。初稿は第2稿に比べテンポも早く何かを訴えるような切迫感がある。音響もハープが登場せず厳しい音楽になっている。しかし、第Ⅰ楽章からここまで緊張しっぱなしであったから、さすがに一息いれたいところである。第2稿のトリオは第8番全楽章の中で最もホッとできる部分となっており、ハープの響きにも癒される。これは俗化というよりは、緊張の持続に耐え難くなる聴衆の精神を慮ってブルックナーが音楽を緩めてくれたと考えたい。
 
第Ⅲ楽章 本楽章はクライマックスの部分が初稿と第2稿で大きく異なる。第2稿ではわりとすんなり頂点に達するので理解しやすいが、初稿はより長大。なかなか頂点に達せず、音楽の方向性があいまいになりまたも魂が虚空をさまよう。シンバルも第2稿では1回ずつ2回鳴らされるが、初稿では3回ずつ2回鳴る。この3回鳴るのが最初に聴いたとき妙だった。クライマックスを際立たせたいのならば1回の方が効果的なはず。ティントナーもシンバルの扱いには苦慮したようで、”7番Ⅱ楽章のシンバルは二キッシュではくブルックナーを振りたいのであれば無視すれば良い、だが8番ではwhat can the poor conductor do with these six strokes? He has to do them, because they are in Bruckner's original stroke.”と書いている。要するにシンバルなんか鳴らしたくないのである。だが、何回か初稿を聴いていると、この3回鳴るシンバルは安直にクライマックスの音響を補強する7番のシンバルとは異なり、教会の鐘のような何か宗教的な意図がこめられていると感じられてきた。もしかしたらカトリック教徒には明確に意図がわかるのかもしれない。いずれにせよ初稿にどっぷりつかると、第2稿は単純化されていて物足りなく、シンバルもただの音響効果となってしまった。

第Ⅳ楽章 実はこの楽章は第2稿で聴いていた時からその終わり方が謎であった。クナッパーツブッシュの演奏だと最後の3音がミ・レ・ドとはっきり分かれていて、まるでEs muss sein!と結論されていうような迫力を感じた。それに比べると、他の演奏では全楽章の主題が重なって大いに盛り上がったのに突然テープが足りなくなってプツンと切れてしまったような感じがしてしまう。なぜ他の指揮者はクナのようにやらないのだろう、と思っていたが楽譜を見ると他の指揮者が楽譜通りでクナが思いっきり自己流に改変していたのであった。最後の3音はアクセント記号こそ付いているものの、ティンパニの叩き分けはない。普通にやるとⅠ楽章で登場した威圧的な下降音型でブツッと切れてしまう。そこをクナは強引に解決したのであったが、果たしてブルックナーが意図したものであったか?初稿では4つの主題が出そろう直前にppになりティンパニが楽しげにファンファーレのリズムにを打ち鳴らす上で第3楽章の主題がホルンで優美に回想される。いよいよ歓喜の終結を迎えるのかな、と期待すると唐突にfffになり安直な期待は無残に打ち砕かれる。4つの主題が重なり調もハ長調であるから起承転結の結、「苦悩を通じて歓喜へ」への歓喜、と形式的には思わせるが、どうもそうは聴こえない。これは初稿の第Ⅰ楽章コーダと同じパターンだ。怖れとか救われたいとかいうもろもろの感情が折り重なって噴出するが神の鉄槌で断ち切られる。それが「死」である。決して壮大なハッピーエンドというようなものではない。真の解決は第9の終楽章でなされるべきものであったが、残念なことに未完成で終わってしまった。そんなふうに思えてくると、このコーダでファンでもついていけない狂ったようなアチュレランドをかけるフルトヴェングラーの演奏が理解できてきた。フルトヴェングラーはまさに爆発的な熱狂とその断絶を表現したかったのではないか?

 以上、初稿を繰り返し聴いての現在の結論は、ブルックナーは8番を「死」と対峙した時に人が抱くおそれやおののき、諦念、祈りといった想念を斬新な音で提示し未解決で断ち切る、という巨大な交響的断章ともいうべき形式を持つ20世紀芸術を先取りする作品として完成した。しかし、同時代人の無理解に合い、意気消沈して小説的ロマン派的作品に作り替えてしまった、というものである。8番初稿の積極的な価値が認められ、より頻繁に演奏されることを望みたい。(日本でプロの楽団により演奏されたことはあるのだろうか?)


2 コメント

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Unknown (ブル好き)
2017-07-07 00:38:10
はじめまして
たしか初稿は最近、神奈川フィルが演奏したような ロジェベン提督が読売日本響で5番シャルク版を演奏をしたのと同時期です
あと3楽章のシンバル、DRディビスのCDだと採用されていません
前に朝比奈隆さんがハース版ですが新日本フィルでシンバル、トライアングル無しの演奏をしたのがCDになっていますが無くても違和感ないですね
どうもブルックナーではシンバル、トライアングルは必要ない気がします
Unknown (Unknown)
2017-07-07 12:02:35
コメントありがとうございます。神奈川フィルは5月13日の演奏会で児玉宏氏の指揮で8番初稿を演奏していますね。私はグールド化していてコンサートも全く行かないですが初稿好きとしてはこれは快挙で嬉しいです。

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