1498年5月23日夜明け。
フィレンツェのシニョーリア広場(Piazza Signoria)、
ジャンボローニャ(GianBologna)作の
ネプチューンの噴水(Fontana di Nettuno)前に
設置された「処刑場」。
ここで火炙りの刑に処されたのが
狂信的な教えを説いた修道士、
ジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)。
地表から約2メートルほどの高さにしつらえられた
渡り廊下を引き連れられて処刑所まで歩き
衆人観衆の元、火が放たれ、刑に処せられた。
フィレンツェ市民が実際にこの処刑を望んだのか否か。
非常に判断に苦しむ。
一方では
短期間に恐ろしいほどに
力をつけてきた修道士を排除したいと思い
一方では
その教えにも一理あることを信じているがゆえに
処刑は避けたいと願う。
そうした複雑な気持ちの表れが
処刑の際の歓喜の叫びと
翌朝の処刑所跡への献花という行動に表れている。
幾多の花と、棕櫚の葉、そして幾千のバラの花びら。
その名残が今もフィレンツェに残る習慣。
毎年5月23日には
シニョーリア広場にある記念パネルの周りに
きれいな花が供えられる。
この日10時からPalazzp Vecchio(ヴェッキオ宮殿)内の
Cappella dei Priori(教区教会礼拝堂)ではミサが執り行われ
Palagio di Guelfa(グエルフォ派宮殿)からは
例のごとく古式仮装行列が行進。
献花の式典が終わると、
行列はPonte Vecchio(ヴェッキオ橋)まで練り歩いて
そこでアルノ川へ花を捧げて終了。
今年は式典の時間に間に合わないかもしれない。
ので日曜日に記念パネルを撮影。
どこにあるかというと、この位置↓。
私はジローラモ・サヴォナローラが苦手。
フィレンツェの彼の拠点だった
サン・マルコ美術館に行くと
なんとなぁく、いやな気分になる。
でも成仏して欲しいから(?)
ついつい命日の式典にはお祈りに行ってしまう。
Girolamo Savonarola
1482年にフィレンツェにやってきて
1491年にはサン・マルコ修道院(Convento di San Marco)の
修道院長に選出される。
非常に弁の立つ人物で人々を魅了する説教を繰り広げ
当時フィレンツェの実権を握っていた
メディチ家を非難し、華美な生活を揶揄し
フィレンツェ共和国は
イエス・キリスト擁護の元にあるべきと説き続けた。
華美なもの、虚実を書き記した書物などを
集めて焼き払ったりもした。
彼の説教の影響を受けたとして有名なのは
ボッティチェッリ(Botticelli)で
自ら作品を焼き払い、作風を変えていく。
急激なサヴォナローラの力の増幅を恐れた反対勢力が
やがて彼を糾弾し始め
最終的に、弟子二人とともに処刑されることに。
ドメイン取得後改装中
フィレンツェのシニョーリア広場(Piazza Signoria)、
ジャンボローニャ(GianBologna)作の
ネプチューンの噴水(Fontana di Nettuno)前に
設置された「処刑場」。
ここで火炙りの刑に処されたのが
狂信的な教えを説いた修道士、
ジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola)。
地表から約2メートルほどの高さにしつらえられた
渡り廊下を引き連れられて処刑所まで歩き
衆人観衆の元、火が放たれ、刑に処せられた。
フィレンツェ市民が実際にこの処刑を望んだのか否か。
非常に判断に苦しむ。
一方では
短期間に恐ろしいほどに
力をつけてきた修道士を排除したいと思い
一方では
その教えにも一理あることを信じているがゆえに
処刑は避けたいと願う。
そうした複雑な気持ちの表れが
処刑の際の歓喜の叫びと
翌朝の処刑所跡への献花という行動に表れている。
幾多の花と、棕櫚の葉、そして幾千のバラの花びら。
その名残が今もフィレンツェに残る習慣。
毎年5月23日には
シニョーリア広場にある記念パネルの周りに
きれいな花が供えられる。
この日10時からPalazzp Vecchio(ヴェッキオ宮殿)内の
Cappella dei Priori(教区教会礼拝堂)ではミサが執り行われ
Palagio di Guelfa(グエルフォ派宮殿)からは
例のごとく古式仮装行列が行進。
献花の式典が終わると、
行列はPonte Vecchio(ヴェッキオ橋)まで練り歩いて
そこでアルノ川へ花を捧げて終了。
今年は式典の時間に間に合わないかもしれない。
ので日曜日に記念パネルを撮影。
どこにあるかというと、この位置↓。
私はジローラモ・サヴォナローラが苦手。
フィレンツェの彼の拠点だった
サン・マルコ美術館に行くと
なんとなぁく、いやな気分になる。
でも成仏して欲しいから(?)
ついつい命日の式典にはお祈りに行ってしまう。
Girolamo Savonarola
1482年にフィレンツェにやってきて
1491年にはサン・マルコ修道院(Convento di San Marco)の
修道院長に選出される。
非常に弁の立つ人物で人々を魅了する説教を繰り広げ
当時フィレンツェの実権を握っていた
メディチ家を非難し、華美な生活を揶揄し
フィレンツェ共和国は
イエス・キリスト擁護の元にあるべきと説き続けた。
華美なもの、虚実を書き記した書物などを
集めて焼き払ったりもした。
彼の説教の影響を受けたとして有名なのは
ボッティチェッリ(Botticelli)で
自ら作品を焼き払い、作風を変えていく。
急激なサヴォナローラの力の増幅を恐れた反対勢力が
やがて彼を糾弾し始め
最終的に、弟子二人とともに処刑されることに。
ドメイン取得後改装中
確かにね、踏みつけられている。(笑)
命日の献花が終わったときだけ、
「なにこれ?」って感じで注目されて。
ボッティチェッリが自棄した絵画って
やっぱりギリシャ神話とかを
題材にしたものだったのでしょうね。
その辺の「華美さ」加減が
サヴォナローラにはお気に召さなかったらしいから。
「春」や「ヴィーナス誕生」の類の
淡い色合いの絵画だったと思うんだけどねぇ。
本当に残念。
>謎探偵
さすがに広場にはいないわさ。
あんなからっとした開放的なところにいる霊なら
怖くないでしょ。
それから呪われているFiorentinaですが
中田なんかもうどうでもいいのです。
昨日の試合はどうも審判の誤審が多すぎるというので
再試合になりそうだけどね。
もうこのままB落ちも仕方ないと
私は半分諦めているので、興味をなくしました。(爆)
>ハヤトさん
ふふう。本当にサヴォナローラが苦手なの。
今日も式典自体には間に合わなかったけれど、
ちゃんとお参りしてきましたよ。
ボッティチェッリはかなり影響受けちゃったのですよ。
だから彼の晩年の作品の人物は
みんな俯き加減で、全体的に暗い色調なのです。
>Giancarloさん
いろんな絵画の中に出てくる
シニョーリア広場を見ると驚きますよね。
本当に何も変わっていない。
今日はちょっと調べものがあって
ファシズム時代の
フィレンツェの写真を閲覧していたのですが
その写真もまったく今と変わりない。
こんな街もあるんですよねぇ…。
1400年代から変化なしですよ。
私は上野でそれを見ました.
鳥肌が立ちました.そう,シンヨーリア広場がいまもそのまんまだったからです.
サボナローラのメダル.それからは特別な思いで見るようになりました.
>ついつい命日の式典にはお祈りに行ってしまう。
ここのところが、生々しいなあ(^^)
ボッティチェッリのことは知らなかったです。
機能の中継では中田君出とらんかったみたいじゃが、最近イマイチなんかぃ?
(゜謎゜)はそこら辺踏み踏みしてるだろうから、何か憑いてるかな。
見えても言わんといてや。
お祓いすんの手間かかるし、知らなかったことにしておきたぃし。(゜ω゜)
意外と知られていないよね。
てか、プレートの存在自体が
あまり知られていないのかも。
私としては、
焼かれてしまったボッティチェッリの絵が気になる。
どんな絵だったんだろー。