この本を私が手に取って、
本屋のレジに並んだのはいつのことだったろう。
物事は私の記憶能力より複雑にすぎていくことが多いためか、
それがいつかを思い出せない。
少なくとも、この本が六刷すられた2007年の一月から
2010年くらいの間のどこかで私は
この本を読もうと思ったわけだ。
そして、漸く2013年の8月15日、
なかば持て余した時間を埋めるためだけに、読破するに至る。
贅沢な時間をきせずして持てたことを
心から感謝している。
というのも読んでみると、これほどの名作が他にあるだろうか、と思ったからだ。(カマラーゾフの兄弟、以外で、てことだけど)
文を書く職業についていたのにも関わらず、
読まずに過ごしてしまった過去の怠慢を心から恥じ入った。
そして、最も悔いたのは、
映画を先に見てしまったことだ。
ディカプリオ主演の
「華麗なるギャツビー」は
それなりの映画でしかなかった。
ただ、映像で紡がれた物語に、
隠された深遠な何かを
感じわけで、それで
原作本を手に取ったのだ。
原作を読むきっかけを与えてくれた、
という意味で凄い映画ではあった。
ただ、原作を読んでいる間中、
ギャツビー役のディカプリオの
顔が浮かんでくるのには辟易した。
好みとしては、ロバート・レットフォードの顔であって欲しかった。(1974年版映画ではR•レッドフォードがギャツビー役だった)
F•スコット•フィッツジェラルドという人は、こんな大傑作を書きながらも、
当初は二万部しか売れず、
失意のうちに他界したようだ。
ウッディ•アレンの映画
『ミットナイト•イン•パリ』に
フィッツジェラルドが
実在の人物として登場していたのを
思い出す。
自由奔放な妻、ゼルダの横で
気弱そうに振る舞うヤサ男として。
そして、映画より
原作の方が数段面白いことに気づくのは、実に小気味いい。
丁度、
娘が映画『僕等がいた』を見て、
漫画のが面白い、
とボヤくのに似ている。
娘は漫画のが上だと
思っているに違いない。
映像より活字のが上のような
気すらして、
ただ単純に嬉しいのだ。
(どちらが上とか下とかじゃなく、
ただメディアとしての
特性が違うだけなんだけどさ)
和製ギャツビーを作るとして、
主役は誰がいいかぁ~?
キムタク?
綾野剛?
などと考えたりして。
ギャツビーの愚かなまでに純粋な心が
お金持ちのお嬢様が相手では、
かくも相応しくないものかを
知るのもとても小気味いい。
それは美しいはずのものが醜くて、
みっともないことも、
崇高な香りを
たなびかせることがあることを
教えてくれている。
人は価値のある愛を見くびり、
価値のない優美なものにしがみつく。
深いよね。ギャツビーは。
この本の原題「The Great Gatsby」を
「華麗なるギャツビー」と訳さず、
ただ「グレート•ギャツビー」と訳した村上春樹のセンスの良さには
とことんしびれます。
フィッツジェラルドが描いた
ギャツビーという人物は
華麗な男では断じてない。
皮肉や、羨望や哀れみの対象として
矛盾する感情を隆起させる、
稀有な存在にすぎない。
周りの姑息なお金持ちに比べたら
ちょっとましな程度の
偉大さにすぎない。
グレイト=greatを'華麗なる'と
訳さないでそのまま用いた
村上春樹はとことんこの物語を
吟味したんだと思う。
そして、このストーリーが
アメリカという社会のみならず、
現代人そのものに問いかけてくる
普遍的もの、を内包しているからこそ
評価されているのだろう。
訳者のセンスも手伝って、
本当にオススメの小説だ。
うーん、今度は英語版を読んで、
しびれてみたい。
(難し過ぎてしびれるのが、オチかなぁ
、トホホ)