秋 田 奇 々 怪 会

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO等不思議大好きの会です

      「奇 々 怪 会」 とは、どういう会なのか


昭和30年前後にイギリスのネス湖で恐竜ネッシーの存在が話題となり(湖面を泳ぐ姿が目撃され、写真に撮られたりした)、ヒマラヤで雪男の足跡が発見された等などが新聞やテレビで話題になりました。
こうした話題は昔から私達の興味を引く出来事だったようです。

いや、もっともっと旧くには・・・
秋田出身の国学者・平田篤胤は異界・幽冥の世界の有様をまとめて、1822年(文政5年)に『仙境異聞』を出版しています。
実は文政3年秋の末、篤胤45歳の頃、江戸で天狗小僧寅吉の出現が話題となっていたそうです。
寅吉は神仙界を訪れ、そこの住人たちから呪術の修行を受けて、帰ってきたというのです。
篤胤は、天狗小僧から聞き出した異界・幽冥の世界の有様をまとめて、出版したのが『仙境異聞』であります。これが当時大きな話題となったと伝えられています。
ことほど左様に”不思議な話”は、いつの時代でも人の興味を引き付けるのだと思われます。

心霊現象、死後の世界、臨死体験、輪廻転生、古代文明、オーパーツ、超常現象、UFO、UMA、ツチノコ・・・・・
身近では霊的な場所、遺跡、神社、お寺、巨木等なども私達の興味を引き付ける様です。


奇々怪会は、こうした事に興味を持つ人の集まりです。
新規の入会を希望する方は下記までご連絡ください。
メールアドレス arashigeru@yahoo.co.jp

逝きし世の面影で語られる旧き良き日本3

2018年03月11日 | 本・雑誌から
「古い日本は妖精の棲む小さくて可愛らしい不思議の国であった」
「地上で天国(パラダイス)あるいは極楽(ロータスランド)に最も近づいている国だ」

ここまで言われると面映いが、これは幕末~明治の日本について語ったものだ。スピーチは多少のお世辞が混じっているとしても、妖精が棲むとまで言われる程、魅力的であったらしい。
西洋人の東洋に対するあこがれ(オリエンタリズム)と見れなくもないが、次の様な著述もある。

同じイギリスの日英修好通商条約の締結使節団の一員オズボーンは
「この町で(長崎)もっとも印象的なのは男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった」
彼は日本訪問を終えたあと、母親に当てた手紙に
「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感の持てる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です。私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます」
少なくても最後の文章は私信だ。お世辞もオベンチャラも必要のない母親宛の手紙だ。
ここで語られているのは・・・・・封建時代であった江戸時代だ・・・・・・・・

妖精が棲む・・・・とまで言われる我が国、日本。オズボーンと共に来たオリファント(イギリスの旅行家・著述家)は、次の様に網羅して語っている。

「日本人の衣服や装飾の趣味の優雅さ、幕府の役人の洗練された紳士ぶり、気違いのようになって買い漁らずにおられない美しい品々、錠も鍵もない部屋に物を置いて一度も盗まれた事がないとか、女の口汚く罵る声を聞いたことがないのは不思議だとか、子どもが虐待されるのを見たことがないとか、その他数々の好意的観察を並べ立てている」

ヤング・ジャパンの著者ブラック(新聞発行業)は
「思うに、他の国々を訪問した後で日本に到着する旅行者たちが、一番気持ちのよい特徴の一つと思うに違いないことは、乞食がいないことだ」と書いている。

オズボーンも幕吏や富裕な町人は着飾っているし、女たちの着物の生地が上等である事を認めた上で、しかしその色彩への好みはしぶくて品がよいと言っている。そしてそれは、趣味の洗練とみなしている。
でこれは、ヨーロッパの夫人の基準とそう乖離がないらしい。
オリファントは「我々の部屋には錠も鍵もなく開放されていて、宿舎の近辺の人は誰でも出入りできる。そこに誰でも欲しくなるようなイギリスの珍奇な物をいつも並べておく。それでもいまだかって、まったくとるにたらないような品物でさえ、なくなったことがない」
他の一人はこう言っている。
「たえず財布の入ったポケットを押さえていたり、ベンチに置き忘れた洋傘をあきらめたりしないでいい国に住む幸せを味わい続けた」

また、日本の家の清潔さを「汚れた長靴で立ち入るのがはばかるほど」という人だけでなく、イザベラ・バードに至っては日光の町に立ち寄った時、街路が掃き清められて、あまりに清潔なので、泥靴でその上を歩くのが気が引けたとまで言っている。

さて、細々と彼らの記述をあげてきたが取りまとめるとこう言う事らしい。
文明としては西欧文明のほうが当然ながら優位に立っている。
しかし、極東の島国に来た時にそれら西欧文明と全く基準の違う文明に接した。その文明の下では、環境・行動基準等々は西欧文明とは言わば対極にあり、しかし人々は幸せで満足しているらしい。
こうした小さい、かわいらしい、夢の様な文明がありうるということは彼らにとって啓示ですらあった。

なぜなら、当時彼らが到達していた文明は、まさにそのような特質とは正反対の重装備の錯綜した文明であったのだ。

十九世紀半ば、日本の地を始めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点はどうあろうとも
この国民はたしかに満足しており、幸福であるという印象だった。
オールコック(イギリス・初代日本領事)は「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」といい、」ペリーは「人々は幸福で満足そう」と言っている。もっともっとこの種の記述がある。

1860年に来日したプロシャのオイレンブルク使節団
「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいかもしれない」

水道設計で来日のイギリス人ヘンリー・S・パーマー(伊香保温泉の湯治客を見て)
「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったりと融けあう。彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えずしゃべり続け、笑いこけている」

オズボーン江戸上陸当日「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとして出会わなかった」
オイレンブルク使節団のベルク
「彼らは話し合う時冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである」

イギリスの大学教授ディクソン
「上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。西洋の都会の群集によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆から赤子にいたるまで、彼ら群集はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中に悲哀など存在しないかと思われてくる」
東京外大でロシア語を教えたメーチニコフは来日当初「のべつまくなしに冗談をとばしては笑い転げる我が人足たち」に見とれずにおられなかったそうである。
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温暖化や水の使い過ぎが原因で世界の湖が枯れつつある

2018年03月09日 | 地球・宇宙・太古
以下の記事はニュースの転載であるが、カテゴリーで言う”不思議”ではない。
東京の5倍も有る大きさの湖が消える、水温が上昇し湖水が蒸発してしまったらしい。地球温暖化か、はたまた別の要素か?恐ろしいとしか言いようがない・・・・・・

ボリビアの巨大湖が消えた、気候変動で「発熱」

東京23区の5倍ほど、面積3000平方キロにおよぶ巨大湖の水が消えてなくなった。
ここは、かつて南米ボリビアで2番目の広さを誇ったポーポ湖。ボートのそばには黒いゴム長靴が転がり、真っ白になった魚の頭骨には、照りつける太陽の光が反射している。水が生命の源なら、ここは水も生命もない死の世界だ。アンデスの高地から巨大な湖が消えたのはなぜか。


ボリビアのアルティプラノは、アンデス山脈を構成する2本の山脈に挟まれた高原地帯だ。高原の北端近くには、海抜3810メートルの地点にペルーとボリビアの国境にまたがってティティカカ湖が広がる。一方、南端には世界最大の塩湖、ウユニ塩湖があり、ポーポ湖はこの二つの湖の間に位置している。

ポーポ湖と運命をともにしているのが、「水の民」とも呼ばれる先住民ウルの人々。近年は湖が縮小して魚が減り、漁をするにも湖の中央部まで出なくてはならない状態だった。2014~15年には、水温が上昇して湖面がさらに下がり、死んだ魚が大量に浮かび上がった。ボリビア保健省から派遣されているフランズ・アスクイ・ズナは、水温が38℃を記録したのを受け、湖は「発熱している」と表現した。

湖に生息していた鳥たちは、食べ物がなくなって餓死するか、ほかの土地へ移動した。そして2015年に、温まった湖水がアルティプラノ高原の風にあおられて大規模な蒸発を起こし、ついに湖は姿を消した。

一帯を災害地域に指定し、周辺の村々に食糧などを配給した政府は、雨が降って水位が少し回復した2017年初頭には、誇らしげに空撮写真を公表した。しかし、湖の水位が低ければ蒸発も速い。現地を視察したエボ・モラレス大統領は、地元住民ならとうの昔に知っていたその事実を目の当たりにするのだ。同年10月の衛星画像で、湖は再び消失寸前であることがはっきりした。ポーポ湖とその周辺に暮らす貧しい人々の生活は、ますます厳しい状況に陥っているのだ。

世界の湖が危機に
 気候変動により、世界各地の湖の水温は、海水温や気温を上回る勢いで上昇している。蒸発が加速し、さらに人為的な要因も加わって、水不足や汚染、鳥や魚の生息域の喪失は深刻さを増すばかりだ。
下記画像はイラン ウルミア湖

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逝きし世の面影で語られる旧き良き日本2

2018年03月08日 | 本・雑誌から
時は封建時代で領主の専制・圧政の下、武士以外は高い年貢に悩まされ、自由も制限され幸せで明るい筈がない。こう教えられたし、こう考えるのがまず一般的であろう。
しかし、そうではないようである。
我々が考える以上に当時の市民は自由で、明るく、快活に過ごしているのだ。

それを証明するのが当時日本に来た各国の外交官や商人、医者等が書き残した書物である。
1820年から29年まで、出島オランダ商館に勤務したフィッセルが、1833年に出版した著作には、すでに次のように述べられていたのである。いいですか1833年ですよ、明治維新の35年も前の出版でですよ。

「日本人は完全な専制主義の下に生活しており、したがって何の幸福も満足も享受していないと普通想像されている。ところが私は彼ら日本人と交際してみて、まったく反対の現象を経験した。専制主義はこの国では、ただ名目だけであって実際には存在しない」

「自分たちの義務を遂行する日本人たちは、完全に自由であり独立的である。奴隷制度という言葉はまだ知られておらず、封建的奉仕という関係さえも報酬なしには行われない。
勤勉な職人は高い尊敬を受けており、下層階級のものもほぼ満足している」。

「日本には、食べ物にこと欠くほどの貧乏人は存在しない。また上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和であり、それを見れば、一般に満足と信頼が行きわたっていることを知ることができよう」。
フィッセルの見るところでは、将軍や大名、それに上級の武士階層は何ら羨むべき存在ではなかった。将軍や大名は窮屈な儀礼に縛られ、自分の国土と家臣についてよく知らず、実権は下級に移行していて、威厳は見せかけだけで何の権力ももたない。と言っている。

上級者と下級者との間の関係は丁寧で温和である。と言う事については次のような逸話が語られている。
アリス・ベーコン(アメリカ・女性教育者。1884年来日、華族女学校英語教師・後の学習院女学校。1894年「日本の内側」出版)は
「自分たちの主人には丁寧な態度をとるわりには、アメリカと比べると使用人と雇い主の関係はずっと親密で友好的です。
(中略)使用人は、自分の眼に正しいと映ることを、自分が最善と思うやり方で行う。命令にたんに盲従するのは、日本の召使にとって美徳とはみなされない。彼は自分の考えに従ってことを運ぶのでなければならぬ。もし主人の命令に納得がいかなければ、その命令は実行されない」

「欧米では、召使が上級者の会話に興味を示したり、あるいは口を挟んだりするのは分不相応なことであって、話しかけられぬ以上決して口を開かず、どんな事情があろうともにやりと笑ったりすることはないと知って、これを知った日本の女学生が驚きをしめした」

「日本では、夜に入って一家が火鉢のある部屋に集まって団欒する時、女中もその仲間入りをして、自分の読んでいる本の知らぬ字を主人にたずねることができる。」

当時の日本人の暮らしはどう本人たちが感じていたのか?
実は日本は鎖国中でもあり、自らの位置は自分自身では残念ながら測定できないと思われる。それに比べてこれらの異邦人は自らの国だけでなく世界各国を巡ってきているので、そうした中で見た日本の記録は鮮明・公平であると言える。
中には女性一人で東北~北海道に旅行して細かく紀行文を残しているイザベラ・バードの様な人もいる。
私はそれらに触れてビックリした。各国の人々が日本を、近代以前の日本を褒め称えているのだ。

イギリスの日本研究家B・H・チェンバレンは
「古い日本は妖精の棲む小さくて可愛らしい不思議の国であった」と書き残している。彼は1873~1911の間、日本にいて東京帝大の教師も勤めた。

同じイギリスの詩人エドウィン・アーノルドに至っては日本を
「地上で天国(パラダイス)あるいは極楽(ロータスランド)に最も近づいている国だ」と賞賛し、スピーチでは
”その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神の様にやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙虚ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾る事もない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである”と述べている。
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「逝きし世の面影」で語られる旧き良き日本

2018年03月05日 | 本・雑誌から
始めにお断りしなければなりません。
このブログは”秋田奇々怪会”で、ブログ冒頭にありますように超常現象、不思議、死後の世界、古代文明等々を題材にしております。
しかし、今日から10回余りで連載する【「逝きし世の面影」で語られる旧き良き日本】は、正直これらに該当いたしません。
敢えてジャンルをこじつければ”古代文明に近い近代直前”と言えるかもしれませんが、無理にこじつけるのも無意味でありましょう。
私たちは古代の遺跡を訪ねる事によって、それまで知らなかった昔の人の生活に触れ驚愕することがあります。今回の連載の意味合いはそういう姿に近いかもしれません。
お付き合いいただければ幸いです。

「逝きし世の面影」と言う表題の単行本がある(平凡社 渡辺京二著 )。1999年度に和辻哲郎文化賞を受賞している。
 


画像の平凡社の単行本は600ページもあり読み応えのある本であるが奇妙な名前の本でもある。
実は今の近代化された日本に変貌するターニングポイントは「明治維新」であったと思われるのだが、本書はその時に
「日本にあった有機的な個性としての文明が滅んだ」と言っている。
そして、それを当時日本に滞在した外国人の目を通して描いている。

私たちは明治以前の江戸時代は封建時代であって、領主の専制・圧政の下、武士以外は高い年貢に悩まされ、自由もなく不幸であった時代と捉えがちだ。
しかし、幕末~明治初期に滞在した外国人がその時代の日本を、日本人を褒め称えている。この事実は案外認識されていない。その事を事実をもって書き著したのが本著である。
私はこの本を読んで改めて日本の素晴らしさを認識したので、これから何回かに分けてご紹介してみたい。

その内容に触れる前に本の帯に著名人が記した推薦文を紹介してみたい。
逢坂剛(作家) 本書を読めば、幕末から明治を生きた日本人が、今ではほとんど失われてしまった美徳を、いかに自然に身につけていたか、ありありと知ることができる。

田中優子(江戸文化研究者) 著者の文章力のゆえであろう。ここに出現している江戸時代日本に、私は渦に巻き込まれるが如く引き込まれ酔いしれる。桃源郷とはこのことである。

玉木正之(スポーツライター) 西洋文明を追って140年。アメリカ文化にかぶれて六十余年。「逝きし世」をただ偲ぶのではなく、我々が真に誇るべき過去を未来へのエネルギーにしたい。日本人必読の一冊。

平川祐弘(比較文学者) 子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でこのような熱心ーこの国以外のどこにこのようなものが存在するというのか。


浦賀にペリーが来航(黒船来航)したのが1853年(嘉永6年)、その15年後には明治維新を迎えた。
永く鎖国政策をとっていた我が国は紆余曲折の末「開国」の道を選び、時代は明治へと繋がってゆく。

この明治維新前後の数十年は日本に大変革があった訳で、300年続いた徳川幕府が倒れ「王政復古」「廃藩置県」「殖産興業」「富国強兵」等々の施策導入があり、日本は近代国家への歩みを始めたと私たちは学んできた。

それでは、それまでの時代つまり直近の江戸時代は近代国家ではなかったのか・・・・・・電気・鉄道・工業機械・造船・兵器等々をとってみても彼我の差は激しく、近代国家であったとはとても言えないでだろう。
*まったく私の個人的思い出であるが・・・・・私が多分10歳頃の時(だから昭和30年前後)、家の照明器具が白熱灯から蛍光灯に替えた晩を忘れられない。電球でも不自由はしていなかったのだが、蛍光灯が点った時の明るさは強烈であった。それまでの照明が何であったのかと言うくらい明るく隅々まで照らした。
それまでの行灯・・・つまり蝋燭や菜種油の照明だったこの時代の人が、初めて電球が点灯した時どんなにビックリしたかが良く分かる。
それでは江戸の時代は近代国家でないが故に国民は不幸であったのか・・・・・・

時は封建時代で領主の専制・圧政の下、武士以外は高い年貢に悩まされ、自由も制限され幸せで明るい筈がない。こう考えるのがまず一般的であろう。
しかし、そうではないようである。
我々が考える以上に当時の市民は自由で、明るく、快活に過ごしているのだ。
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日本人だけが持つ最強の遺伝子「YAP」が凄すぎる!

2018年03月04日 | 不思議
YAP遺伝子、下記の動画で初めて知ったのだが調べてみると凄い!!

Y染色体による系統分析
Y染色体は父系を通じてのみ継承される遺伝子。
他のどの地方にもなかなか見られない遺伝子で、中東のごく一部、チベット地方のごく一部にこの遺伝子を持つ人々がいる。
日本人のルーツとは?日本人は、どこから来て、何をするために、日本の島に陣地を取ったのか?

大陸の中国とか東アジアの人たちとは少し私たち(日本人)は違っている。
何が違っている?
国立遺伝学研究所 齋藤教授「縄文時代、1万6千年位前から3千年位前まで、日本列島の北から南まで縄文土器を作っていた人達がいました。で、その人達のDNAが我々にも伝わっていると。それによって大陸の中国とか東アジアの人達は少し私達とは違っていると、、」
つまり私達日本人と、他のアジアの人達はちょっと違う特徴があるのは、縄文人から受け継いだDNAの影響という事なんですね・・・・・・

日本人だけが持つ最強の遺伝子「YAP」が凄すぎる!
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【衝撃】「太陽がおかしい...」NASAの発表でついに"氷河期"の世界が?!【世界驚愕】

2018年03月03日 | 地球・宇宙・太古
太陽に関する??がいくつかアップされている。
私たちの生活は太陽なくして成り立たない。しかし、その太陽に異変があると言うのだ。
地球温暖化が叫ばれて久しい。しかし、この冬をみると地球は寒冷化している雰囲気さえある。
もちろん地球温暖化は太陽のせいではない、むしろ化石燃料の使い過ぎや、オゾン層の破壊などが原因と言われている。
太陽に何が起こっているのだろう、いくつかそれを探ってみたい。

【衝撃】「太陽がおかしい...」NASAの発表でついに"氷河期"の世界が?!
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「東北見聞録~謎と不思議と珍談と」第三十話

2018年03月01日 | 本・雑誌から
「東北見聞録」UFO

地上波やBS・CSのテレビ番組表を見ていると時々「UFO」の文字を見つけて、ついつい気になって見てしまう。CSでは、あの矢追純一さんの懐かしいUFO番組も放映されている。
ところで、そのUFOをご覧になった経験をお持ちの方は居られるだろうか?筆者も小学6年生の時に澄み切った青空の中に赤く光り輝く物体を見つけて「すわっ!空飛ぶ円盤!(当時は未だUFOの呼称は無い)」と興奮したが、激しい動きは無く、その後色々調べた結果、人工衛星との見間違えが有力…と、自分で結論づけた。こうした例も多々あって約99%が光りの屈折や雲への反射など自然現象で説明されるが、残る僅かの例は正に「アンアイデンティファイド・フライング・オブジェクト=UFO=未確認飛行物体」なのだ。

①空飛ぶ円盤
当誌2014年1月号で若干UFOについて触れているが、改めてその歴史をひも解いてみよう。
現代の騒動発端は1947年(昭和22年)6月、アメリカのワシントン州上空で、自家用機を操縦していたケネス・アーノルドが9個の奇妙な皿型の物体を目撃した事に始まる。目撃したその形状から「空飛ぶ円盤=フライング・ソーサー」として一躍注目を浴びた。
また同年7月にはニューメキシコ州ロズウェル近郊に「空飛ぶ円盤」が墜落、乗員の死体や円盤を米軍が回収し隠蔽したとされる「ロズウェル事件」が発生、更に翌年にはケンタッキー州上空で、アメリカ空軍機を操縦するマンテル大尉が謎の飛行物体を目撃した後、墜落し犠牲となった「マンテル事件」が起きて「空飛ぶ円盤=宇宙人説」への関心が更に高まって行く。

この後は堰を切ったかの様に目撃例が続々と寄せられた他、映像も公開されるなど世界的な関心事に発展。アダムスキー型円盤の名付け親ジョージ・アダムスキーの「空飛ぶ円盤同乗記」など著作物も登場して賑やかさを増す。筆者もアダムスキーの著書は読みまくった口だった。が、後にアダムスキー型円盤はインチキだったとの報道が有り、夢中になった身としては少々ガックリ。しかし、インチキだけでは片づけられない実例も多々あって、ミステリー度は増して行く。
ところで、UFO=未確認飛行物体とは本来は航空・軍事用語で、日本でも1950~60年代は「空飛ぶ円盤」が主体だったが、1070年代以降TV番組「謎の円盤UFO」等の登場により一般化して行った。

②怪光現象
さて、UFOを想像させる飛行物体は、古くは聖書の記述やキリスト教の絵画に描かれている怪光等が、UFO研究家によって様々な見解が示されている。日本でも古文書等に不思議な光現象が記載されている例が見られる。地元秋田県の身近な例では、男鹿市で文化七年(1810年)8月26日、男鹿地震の前触れとも思われる怪光現象が「暮れに日の影が2つ現れ、真の光(太陽)は海に落ちかかる一方で、もう一つの光は明るさを増し…」と、地元民の記述に残されていて、翌日に男鹿大地震が発生している。
「地震雲」現象はよく言われているが、この古文書では「光」現象だ。男鹿市では現代に入っても目撃例が数多く有り、地元民放TV局でも不規則に夜の空中を浮遊する映像が報道されたケースも有る他、こうした動きを受けて最近では男鹿半島のドライブインにUFOラーメンもお目見えした。UFOがらみの町興しで有名なのは、石川県羽咋市(はくいし)や、「UFOの里」として様々な取り組みをしている福島市飯野町などが挙げられる。機会が有れば、是非とも現地に足を運んでみたい。

③1枚の絵
ところで、三角山から発する「怪光」や上空に「UFO」が飛来したとする目撃談は結構多い。その怪光現象をスケッチとして収めた画家の作品に、筆者はかつて直に触れた。
作者の名は日本画家の鳥谷幡山(とやばんざん)、明治9年青森県七戸町に生まれ、寺崎広業の門下で活躍し昭和41年に90歳で没した。絵画に専念する傍ら晩年には「日本のキリスト」を出版した他、キリストと弟イスキリの墓が在る旧戸来村(現在の新郷村)のキリスト渡来伝説を世に広める事に専念する。
そこには思いを同じくする複数の「仲間」が存在したが、これについては非常に複雑で一言では語れないので後日に譲るとして、肝心のスケッチ画は鹿角市大湯の大湯ホテルが所蔵していた。

平成3年~6年にかけて、ピラミッド説の山「クロマンタ=黒又山」に謎を究明する本格的な学術調査のメスが入った折、筆者も報道兼調査員として加わっていた学術調査団の定宿となっていたホテルで、当時の専務と会話を交わす中、「鈴木さん、面白い物をお見せしましょう」と風呂敷包みを取り出して来た。
そして貴重な文献と共に姿を現したのが、「我帖」と書かれた一冊のスケッチブックだった。昭和17年8月から9月にかけて鳥谷幡山が周辺をスケッチしたものだ。表紙をめくると先ずストーンサークルの日時計状特殊組石が、そして次のページに不思議な現象を捉えたスケッチが描かれていた。昭和17年8月23日、「ピラミッド黒又山、俗にクロマンタと言う山頂に…突如、光芒が現れる」との注釈が添えられている。ジグザグに動いている怪光を描いたミステリアスな絵だ。ピラミッド説の三角山と怪光=UFOの組み合わせは、謎を更に深めた。鳥谷幡山はスケッチを通じて、何を語りたかったのだろうか?

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