ブログ記事2018年12月31日「軍医と共に広島へ派遣された陸軍軍医学校の看護婦石井十世さんの証言」をアップしましたが、2005年8月23日の朝日新聞記事にも石井十世さんの証言がありましたので転載します。
「戦後60年 戦跡は語る⑫ 陸軍戸山学校の会議室(新宿区)
惨状の看護、不戦願う
文字起こし
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徳川の世には戸山山荘と呼ばれた尾張藩の下屋敷があった新宿区戸山。
明治以降、太平洋戦争敗戦までは、陸軍戸山学校、陸軍病院などの陸軍関連施設があった。そして今、戸山ハイツという都営住宅団地が広がる。
その一角にある日本基督教団・戸山教会は、陸軍戸山学校の会議室だった建物の上にある。頑丈な石壁で囲まれた半地下の会議室では、どのような会議が開かれていたのだろうか。
「太平洋戦争中、会議室の前に黒塗りの立派な車がよく来ていました。当時の東条英機首相の姿も見かけました」
陸軍病院の元看護師で、今は戸山ハイツで暮すらす石井十世さん(83)は当時を振り返る。
日本赤十字校を卒業後、陸軍病院の口腔外科に配属され、戦地で顔などを負傷した兵士らの看護を担当した。
戦争末期になると、頻繁に空襲警報が鳴り、靴をぬがずに寝る日々が続いた。東京大空襲の時には、隅田川に浮かんだ死体を引き揚げる作業もしたという。
そして、原爆投下後の広島へも看護師として派遣された。面影も残らぬほど皮膚がむけてしまった人、壁から消えない子どもの影一一。「本当に地獄絵でした」
だが、戦後も日本は核の被害者を出した。
現在、陸軍病院の場所には国立国際医療センターが建つ。その中には米国がビキニ環礁で行った核実験で被爆をした第五福竜丸の模型が飾られている。ここ(当時は国立東京第一病院)で治療を受けた乗組員らが寄贈したものだ。
石井さんは語る。「戦争も核もお断り。その一言に尽きます」と。
文・松浦格子
写真・加藤丈朗
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2005年撮影管理人日本基督教団・戸山教会
陸軍戸山学校将校会議室跡
(了)
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