葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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「人骨の会」フィールドワークの報告

2024年04月22日 | 人骨の会・731部隊・石井四郎

人骨の会」(軍医学校跡地から発見された人骨問題を究明する会:代表川村一之)鳥居靖事務局長から送信されたメールを転載します。

参考Blog記事>人骨の会「FWチームの4月会議」

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先日行ったフィールドワークの報告をまとめました。鳥居の視点からしか書かれていないので、参加者の皆さんにはご不満もあるかと思いますが、付け加えたいことがあれば、記事の投稿をお願いします。次号以降に載せます。細かい事実関係などで訂正があれば、校正お願いします。

フィールドワークチーム 偕行文庫を訪れる

4月19日、快晴の中、フィールドワークチームの長谷川、門前、島村、都井、鳥居(敬称略)の5名がJR飯田橋駅改札口に集まったのは11時過ぎ、駅ビル内のJRが設置したパネル、周辺ビル群の千代田区が設置したパネルなどを用いて、江戸城外堀と配置された枡形門、甲武鉄道の歴史など、長谷川順一さんから説明を受ける。その後、周辺を散策、枡形門である牛込門の名残を残す石垣、飯田橋セントラルプラザ内にある新宿区と千代田区の区境と区境ホール、牛込濠と神田川と合流する飯田濠の境、富士見町教会の建て替えとその跡地に施された牛込門石垣のデザイン、甲武鉄道牛込駅跡の境界石…説明を受けたり直接見たり触ったり。

戸山に移転する前の陸軍軍医学校は、中央線沿いの逓信病院・法政大学市谷キャンパスの辺りにあった。病院の一角には日本赤十字社発祥の地の説明板、法政大学80年館の南側には、アーネスト・サトウゆかりの屋敷跡の銘板が見られるが、富士見坂校舎の入り口に崩れかけた石柱が、陸軍軍医学校の境界石であることの説明は見当たらない。

 さて、お昼は遊就館の1階玄関ホールの、展示されている「ゼロ戦」の後ろの喫茶スペース「茶寮・結」で昼食。今、遊就館では「兵食」をテーマにした特別展示が行われている。確か1929年に新築移転したばかりの戸山の陸軍軍医学校に天皇が行幸したときに、小泉親彦が天皇に説明した内容が兵衣・兵食についてだった。興味のあるテーマだ。12月8日(日)まで開催しているので、今度一人で行ってみようと思う。

昼食は「兵食」に因んだ特別メニュー「すいとんといなり寿司」を頼んだ。思いのほかおいしく、違う意味でがっかりした。

 昼食を終えて午後1時、いよいよ偕行文庫へ。長谷川さんが予約してくれたおかげでスムーズに書籍の検索・借入ができた。筆者は近衛騎兵聯隊と陸軍戸山學校関係の書籍を何冊か借り、今まで使っていた写真や他の方から頂いた資料の出典を確認したり、新たな資料の収集ができた。予定の2時間はあっという間に経過し、惜しみつつ帰宅の途に着いたが、貴重な軍事資料の宝庫である同文庫の利用価値に改めて気付かされた。

 さらに詳しい報告は、下記のQRコードから長谷川さんのブログを訪問してほしい。

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門前教三氏から送信されてきた富士見町二丁目の古地図に管理人が加筆しました。

法政大学市谷キャンパスにある「陸軍用地」境界石

「アーネスト・サトウ邸跡」碑

JR飯田橋駅牛込御門石垣跡の前にある「富士見町二丁目」説明板

(了)

 

 

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