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今日のヒロシマ通信=中国映画「苦干」+新聞別刷資料

2024年06月11日 | 日本と中国

2022年11月1日に投稿した>日本語字幕付き版1940重慶空爆部分《苦幹—中國不可戰勝的秘密》<が、ヒロシマ通信に投稿されましたの転載します。

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[2024-6-11『1945ヒロシマ連続講座2016』「ヒロシマ通信」メンバーのみなさんへ]
【  今日の通信=中国映画「苦干」+新聞別刷資料  】
通信の読者の中には、すでにご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、中国映画「苦干」の紹介です。日本軍の重慶爆撃の様子が映し出された貴重な映像です。6月1日2日と開かれた平和学会の研究集会に参加された読者の方からの情報です。重慶爆撃については下記引用をお読みください。
もう1枚は、こちらもやはり読者から届いた新聞記事の紹介です。特に朝日新聞の「知る原爆」「知る沖縄」「知る水俣病」はそれぞれ全16ページの特別編集版。小中学生向け、などとあなどってはいけません。短く要点を押さえて良く出来ています。一応学校向けですが、個人でも、あるいは地域のグループでも取り寄せることが出来ます。どうぞお申し込みを!
【 重慶爆撃 】・・・「世界史の窓」から →→ 重慶/重慶爆撃 (y-history.net)
重慶は中国の長江上流、四川省最大の都市。日中戦争中の1937年12月、中国国民政府の首都南京が日本軍の総攻撃を受ける前にここに遷都した。上海戦で約25万の兵力を失い、南京で徹底抗戦は不可能と判断したためであった。これ以後、日中戦争の最後まで蔣介石の主導する国民政府は重慶を首都として抗日戦争の拠点とした。重慶国民政府に対しては、「援蔣ルート」によってアメリカ・イギリス・ソ連からの援助物資が運び込まれ、抗日戦を継続できた。
重慶爆撃は、1939年春から始まり、1941年まで行われたが、特に1940年5月18日から9月4日にかけて(つまり太平洋戦争の開始前に)行われた一〇一号作戦が、最も激しい爆撃であった。日中戦争の有利な展開をめざす日本軍の戦略爆撃であったが、蔣介石を降伏させることはできず、かえって多数の市民への無差別爆撃は国際的な非難を浴びることとなった。
作戦は陸・海軍共同で行われ、海軍は九六式陸上攻撃機を漢口から、陸軍は九七式重爆撃機を運城から、重慶とその周辺を目指し、爆撃目標は「戦略施設」に限られ、アメリカ・イギリスなど第三国施設などは除外されていた。しかし、重慶は霧が深く、大体の見当で投弾され、実際は無差別爆撃となった。8月19日の爆撃には完成したばかりの零式艦上戦闘機(いわゆるゼロ戦)が初めて護衛についた。この一連の爆撃によって多数の重慶市民が殺害され、蔣介石の住居もねらい撃ちされたが、蔣介石は難を逃れた。
重慶爆撃の犠牲者は1939年だけで2万8千に及んだ(中国側資料)。この爆撃は、ドイツ軍のゲルニカ爆撃(1937年4月)とともに敵の抗戦意欲の低減をねらい、軍事目標だけでなく市街地も無差別に爆撃するという戦略爆撃の始まりを示すものであった。日本軍の錦州爆撃、漢口爆撃、ドイツ軍のロンドン爆撃、アメリカ軍(連合軍)のドレスデン空襲、東京大空襲と日本の都市に対する空襲、そして広島・長崎への原子爆弾投下が戦略爆撃であった。
・Episode 重慶爆撃の記憶
2004年7月に開催されたサッカーのアジアカップ国際試合の重慶会場で、日本チームに対して中国人観客から激しいブーイングがあり、勝って引き揚げる日本チームのバスが襲撃されるという事件が起こった。日本人がほとんど忘れていた(あるいは知らなかった)日本軍の重慶爆撃に対する中国人の感情がなおも厳しいことに気付かされることとなった。日本のマスコミは中国政府が重慶を反日教育の拠点にしているためであると非難する論調が多かったが、まず事実を直視することが大切であろう。」 ・・・・・・引用ここまで(一部抜粋)

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(了)

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