葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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32年前の7月22日に「人骨」が発見! 第731部隊を多くの国民が知ることになった森村誠一氏の「死の器」と「悪魔の飽食」がしんぶん赤旗に連載されていた

2021年07月22日 | 人骨の会・731部隊・石井四郎

本日は、32年前に陸軍軍医学校跡地の国立予防衛生研究所建設現場掘削作業中、人の頭骸骨約30個が発見された日です。画像提供は元新宿区議川村一之氏(「人骨の会」(軍医学校跡地から発見された人骨問題を究明する会代表)

さて、『しんぶん赤旗日曜版7月18日号に<たび>「都心に残る731部隊の影 30年前に土中から人骨100体以上」を論評する』として、六つの問題を提起していす。

第二番目は、第731部隊を多くの国民が知られることになった森村誠一氏の「死の器」と「悪魔の飽食」が「しんぶん赤旗」に連載されていたことです。

新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地から発見された「人骨」が焼却されずに、新宿区百人町の葬儀社「公営社」の地下に保管されました。そして新宿区の依頼で札幌学院大学佐倉朔教授によって鑑定がなされ、現在は国立感染症研究所敷地内「静和」に保存されています。

佐倉教授が持参して参加者に見せたアルバム(管理人がデジカメで撮影)

毎週土曜日に飛行機で札幌から東京へ来て、公営社の地下で鑑定してから日曜日には札幌へ帰ったと話されていました。


人骨の会」(軍医学校跡地から発見された人骨問題を究明する会)や「731部隊展」をはじめとした市民運動が大きく貢献したことは間違ありません。下の画像は1991年8月24日~9月1日まで北京市「中国抗日戦争祈念館」と哈爾浜市平房731部隊跡を訪問した市民調査団です。(敬称略)後段左から三人目が人骨焼却差止住民訴訟原告団長渡辺登、五人目が調査団長越田稜(アジア民衆法廷準備会・学習院高校校長)、六人目が松村高夫(慶應義塾大学教授)、一番右端はTBSテレビ近藤昭二プロジューサー。下段左から二人目が川村一之(日本社会党新宿区議)三人目が管理人。七三一部隊犠牲者遺族から調査を求める人権救済の申立書を預かりました。「中国抗日戦争祈念館」で開催していた「731部隊展」を、東京で開催しないかと中国側から提案されました。その後、実行委員会が結成され1993年7月6日に新宿区内で「731部隊展」が開幕しました。


同時に、1981年7月からしんぶん赤旗」に連載が始まった森村誠一著「悪魔の飽食」を忘れることはできないでしょう。
管理人は、「続・悪魔の飽食」99~100頁に記述されている下記の記述を注目しています。


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(略) 
 戦前、東京・新宿区若松町の陸軍病院、陸軍防疫研究室には多数の人体標本があった。その中には、乾燥し、ミイラになった人体や、ペストに罹った黒色死体もあった。コレラ、チフスの罹病標本も多かった。
 終戦と同時に、多数の研究者、教育隊少年隊員が動員され標本の処分が急がれた。防疫研究室の裏手にあった空地に、深さ十メートルの大きな穴が掘られ、防疫研究室に陳列されてあった多数のホルマリン漬け人体標本が、ガラス瓶ごと投げこまれた。関係者の証言によれば「人体標本の処分作業は八月十五日以降、一か月かかった」という。
 「穴の広さは十五メートル四方、深さは十メートル、三階建ての家屋がすっぽり収まりそうな深さだった。穴掘りが完成すると同時に、人体標本を入れたガラス広口瓶、パラフィン処理を施した人体組織標本が何百個も穴の底に投げこまれた・・・・・・ミイラの人体標本は投げ込まれたところを、東京帝大医学部からきた人びとによって再び拾い上げられ、帝大へ持ち帰られたと記憶している。標本の中には高橋お伝の臓器もあったが、これは警視庁が持ち去った」とは関係者の話である。
 この時の人体標本処分作業が、先の陸軍省通達「処理要領」と表裏一体をなすものであることを、読者は先刻から察知しておられよう。新宿区若松町の陸軍防疫研究室や陸軍軍医学校には、ハルビンから持ち帰った「丸太」の標本多数があったのではないか。また標本の中には、七三一で殺された白人「丸太」の臓器、生首等が含まれていたのではなかったか。
 「医事関係」とは、あるいは九州大学医学部が行なった米兵捕虜生体解剖事件の「証拠」を指しているのかもしれない。
(略)
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管理人は、赤旗編集局を通じて森村誠一氏からメッセージを頂いた。

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 森村誠一氏から「証言は私が直接、間接に聞き取ったもので、ご本人は亡くなられましたが、内容は信頼できるものです。いまのうちに戦争犯罪の確固た証拠をを堀り起こしておかないと永久に埋没されてしまうおそれがあります。事の重要性を考慮されて発掘調査が行われるよう努力されることを願うものです。」と、はそべ力議長にメッセージが届けられています。
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「人骨の会」代表であった神奈川大学教授常石敬一氏は、「悪魔の飽食」を小説家の文学作品であると評価されなかったので、「防疫研究所の裏手」の発掘調査は国には要求しませんでした。
「陸軍防疫研究所」の北側裏手となる、都立戸山公園「多目的運動広場」付近の発掘調査を国に求めたいと思っています。(これが遺言となるかもしれません。)

(つづく)

 

 

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