早苗はこの頃の母が変だと感じる。
継母だったという話は確かにひどい衝撃となって早苗の心に残ってはいた。
小さな頭で考えてみても、そう言えば母と自分は見た目に全然似通った点はない。
早苗の面長の顔も色白な所も皆父親似だという。
小柄でふっくらと丸い顔の文子のどこを取っても早苗との共通点はなかった。
だから、継子なのだろうか?
あれからそんな疑いが早苗を悩ましたが、その悩みは母と一緒にいるとすぐに消えた。
母が他の誰よりも早苗を愛している事は肌で感じているからだ。
早苗が辛い思いをした時、文子はすぐに察してギュッと抱きしめてくれる。
エプロンからかすかに石鹸の香りがして、その香りに包まれてると早苗は心からほっとするのである。
「本当の母じゃなかったらこんなに心から優しくはしてくれない」それはいつも出る結論だった。
しかし、今は母の方がこの頃考え事ばかりしている。
いつものようにテキパキとせずに、何か考えて作った出汁巻卵は砂糖と塩を間違えて入れてしょっぱかった。
「嫌だあ、まずいよ。お母さん、なんか変だよ?」
「ごめんなさい。卵まだあるから作り直すわ」
文子は情けなさそうに台所に立とうとした。
それを早苗は遮って言った。
「いいよ。お味噌汁と漬物で食べるから」」
早苗は「それにっ」と醤油差しを取った。
「醤油かけご飯よ。おかあさん」
文子は泣き笑いの表情を浮かべた。
そして突然切り出したのである。
「早苗、お母さんと一緒に東京へ行かない?」
「えっ!」
早苗はびっくりして、文子の顔を凝視した。
文子はさっぱりした顔で今度はさりげなく言った。
「東京見物に行こうよ」
「いいね。だけどそれ本当?」
「早苗のお父さんは東京の専門学校で勉強していたのよ。お父さんが学生時代に住んでた街を見たいと思わない?」
「思う。思う」
早苗はニコニコして頷いた。
「それで、醤油ご飯じゃ身にならないから、早苗の好きなネギ入りのいり卵作るよ」
「やったあ」
という早苗の歓声を背に受けて、文子はいそいそと台所に立った。
東京には早苗の実母が住んでいると聞いた。
だから文子にとって絶対行きたくない住みたくない所の筈だった。
しかし、しがらみのない、煩い噂のない、他人ばかりの土地で働き口の見つかる所と言えば、東京を置いて他にはなかったのだ。
これより以前に、普段全く行き来のなかった佐伯勝夫が訪ねて来た。勝夫は恵三の従兄に当たり、事実上佐伯の本家を継いだ形になっている。
戦後、進駐軍目当ての商売をして当たり、地元の名士になっている男だ。
りゅうとした背広姿の勝夫は、ざっぱりと整えられている部屋を冷めた目で見回して
「狭い」と呟いた。
「早苗を佐伯の本家に戻したい」それが彼の話の趣旨である。
文子はそのまま心臓が止まってしまうかと思える程胸が苦しくなった。
「こんな裏長屋に本来なら佐伯家の跡取りを置くべきではない。
口さがない人の噂もある事だ。
あなたも未だ十分若いのだし、自由になって女としての幸せを考えてみたらどうか。勿論長屋はこちらでそれ相応の値段で引き取るよ」
文子は見下して喋る勝夫の口を二度と開かないようにしたい衝動に駆られた。
それをじっと我慢して辛うじて答えた。
「もう少し時間を下さい。せめて入学する前まで早苗と一緒にいさせてください。
それに、、、それに文子にはどう言って離れるのですか?
早苗は私を実の母だと信じ切ってます」
「本当の事は時が経てば分かる。あの信子が死んだという話は別にしてだがね。
早苗にとって直接血のつながった私たち夫婦の許で育った方が幸せなのではないか」
本家は裕福だし、格式を重んじる田舎においては結構な条件である。
足元を見られ馬鹿にされてることが悔しかったが、文子は歯を喰いしばって屈辱に耐えた。
勝夫夫婦は何時まで経っても子に恵まれなかった。多分この先も生まれる見込みがないと判明したのだろう。
だから、血の繋がった早苗を欲しがっているのは分かる。
「でも犬や猫の子じゃないんだ。恵三さんの子供は妻である私の子だ。
血の繋がりだけで人間の絆が出来ているとは思えない。
長い事愛しんできた家族からどうして引き離そうというのだ」
文子は自分の心の支えを奪われる気がした。
いっそ、長屋の権利を、文子は自分の手で業者に売ろうと決心した。
売った金でここから離れた所で早苗と暮らそう。
しがらみのない、最適な場所は誰が住もうと自由な広い東京だと考えた。
そこで仕事を見つけて働いて早苗を養おう。
家の売り買いも、上京も、文子は経験した事はない。
清水の舞台から飛び降りるつもりで、やってみるほかないと思った。
まずは、東京の街を見ることが先決である。
最初に恵三が学生時代過ごした台東区のY町に行ってみよう。
文子はそんな思案に耽って、つい目の前の家事が疎かになっていたのだ。
文子が気が付くと、目の前の早苗は美味しそうにいり卵を食べていた。
「早苗、夜汽車に乗ってみない?」
と早苗に声をかけてみる。
「ええ!本当、素敵」
「大垣駅から出る列車あるから座れるし」
「それに夜汽車なんて、いい、いい」
早苗は面白い遊びを教えられた子供の様に目を輝かせた。
文子もまるで子供に帰った気持ちになる。
この子さえ居れば、私はやり直せる。
丈夫で十分働ける身体を持っているのだから。
文子は自分を励まして、大垣発の夜行準急の切符を買った。