兵藤舞は夜半に東京のアパートに帰宅した。
田神晴子の推察通り、彼女も自殺を考えてあの海岸を彷徨ったのである。
舞も恋の悩みを抱えていた。
ただ、それは不倫である。
大学卒業後、大手出版社に勤めた彼女は、機敏に働く女性だった。
上司の大木が目を掛けて、大事な仕事を任せてくれた。
信頼と尊敬が男女の愛に変わるのは時間がかからない。
二人は密会を重ねた。
大木には二人の娘がいて、父親っ子らしい。
妻の悪口は言っても、子供の話をすると目を細める。
陰の女でもいい、職場でずっと一緒に居られる。
舞は悲愴な思いを抱いていた。
大木に言わせると贅沢で品の無い馬鹿な妻に比べて、自分の愛は純粋だ。
金は要らない。
二人で良い本作りが出来ればいい。
そんな彼女の学生じみた想いは惨めに打ち砕かれた。
社の休日は決して大木と逢う事は出来ない。
秋晴れの美しい日曜日、彼女は恋しさの余り大木の家の近辺を彷徨った。
生垣のある瀟洒な二階建ての家の前で家族が談笑してるのに出会った。
これから車を出して休日のドライブをするらしい。
大木一家に違いないのに気づくのに時間がかかった。
それ程、彼の妻は話されたイメージと異なっていた。
ベージュのニットのワンピースを上品に着こなし、シニョンに結った髪のよく似合う美しい人だった。
決して派手な女でも馬鹿な女でもない様だった。
ハッとした大木と目が合った時、舞は後ろ向きに駆け出していた。
翌日、大木は舞に一言も口を利かなかった。
舞は焦燥感にかられ、衝動的に大木のデスクの前に立って、きつい口調で尋ねた。
「大木さんは嘘つきですね」
大木は黙り続け、社員は声を潜めて見守った。
暫くして舞は資料室に回された。
大木の家に電話したが電話番号は変えられていた。
舞はただ悔しかった。
自分はただ都合の良い女に過ぎなかったのだ。
己の矜持をズタズタに切り裂かれた気がした。
嵐が来るという日に舞はかって大木と取材したK町を訪れたのである。
「ここで死体が上がったらどんな顔を大木はするのか」
面当てに死んでやりたいと思ったのだ。
思いは「はるか」に入ってから淡い霧の様に消えた。
馬鹿らしい事をしたと思える様になった。
三月後、24歳の舞は職場を変えた。
小さな出版社だが、責任のある仕事を任されるようになった。
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