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読書の森

夏恋 その3 再び

希の祖母、真里は狭い自室で書き物をしていた。
パソコンに入力する前にまず下書きせねばならぬ。
72歳になった彼女の最大の夢は文学誌の新人賞に入選する事である。
これが最後の夢になるとは思わなかった、と密かに苦笑する。

真里の母は(つまり希の曽祖母は)文学者と言う肩書きに惹かれて一緒になった夫(希の曽祖父)のエキンセントリックな性格によって大変な苦労を重ねた。
その母を見る度に、当時は当たり前の専業主婦が一番幸せに繋がる道と真里は信じて、それが叶った。
しかし結婚は人生のゴールでは無い、それからが人生の長い道だった。嫌っていた父に実はよく似た性格の真里にとってご近所付き合いからして戸惑う事ばかり。
この棘を含んだぬるま湯でジワジワ茹でられて、茹であがった時、それが御陀仏って事か?などと思った事もある。

友人の紹介で知り合った亡夫は良い意味で鈍な人で、そんな真里を世間知らずなだけと見ていた。彼は、一応名の通った会社の社員だったが、風采も上がらず不器用で出世も遅い人だった。それで自分は助かったのかも知れない、と彼女は考える事にしている。
あの夫でなかったら、風船玉みたいな自分はどうなっていたか知れない、と。

茹でガエルにもならずに済んだ今、往年の父の夢を叶えてみたい、と真里は思う。
父親は生涯売れない文士で、大衆誌におもねるライターに過ぎなかったから。



「ばあちゃん、入っていい?」
希の声が甘く聞こえ、言ったと同時にドアが開いた。

「又書き物かあ、ばあちゃん勉強好きなんだね」
「まあね」真里は苦笑する。
「実はさ、勉強好きな婆ちゃんだからこそ頼みがあるの?」
「なあに」
「つまり、1964年の東京オリンピックに関するレポート書いてもらいたいのよ!お願い!」

希は要領よく依頼の主旨を伝えた。
「ふううん。でも歳だから大分記憶力が弱ってるし、希が満足出来る話を書けるかどうか分かんないよ」
「良いんだよ。何せ1964東京オリンピックの生レポートじゃん。どんな事でもいいのよ」
真里はニッカと笑って拝む真似をした。
「やめてよ。私未だ仏になってないからさ。
でも仕方無いよね、他ならぬ希の頼みだし。少し時間ちょうだい」
希は頷くと、レポートの邪魔にならぬようとか呟きながら、ドアを今度は静かに閉めた。
「ゲンキンなんだから」
苦笑した後、真里はもの思いに耽った。

1963年、お下げ髪で制服姿の真里は同じ学校の香山と銀座を歩いていた。香山は別クラスだったが、学年全体で取り組んだ学園祭のテーマが「東京オリンピック」なので、他クラスの男女で組んだ方が多面的にオリンピックの実態を知る事が出来ると生徒会で企画した。
もはや戦後は完全に終わり、新時代の日本、東京の始まり、ということで学校側は生徒の自主性を何より重んじてくれた。

夏休み直前の社会科実習と言う名目で、銀座にあるオリンピック準備会を訪ねたのである。

真里にとって男性と二人で銀ブラなんて初めての経験だった。
香山は、なぜか大人のアンニュイな雰囲気を持った男子学生で、真里には遠い存在だった。
たまたまその日同じ班に割り当てられただけである。

花の銀座にあるとはいえ、オリンピック準備委員会のあるビルは、焼け跡に奇跡的に残っていた時代錯誤のように重厚な印象の灰色の建物だった。
微かにカビの匂いがするような、重々しい空気の漂う建物内に入り階段を登る。
そして、立て看板のかかるチョコレート色の扉を押した途端に世界が変わった。

そこは、まるでお花畑のように美貌の女性がキビキビ働いている場所だったから。

後で知った事だが、実は民間の有志で設立したオリンピック委員会と言うのはこれ一つでなく、複数あった。それぞれ専門分野を分けて活動するのである。
今日訪ねる委員会は主にマスコミ関係者が働いて、世界の東京オリンピックに対する反応や期待度を調査する目的があった。反応が多い程良いわけで、フジヤマゲイシャでしか知られてない日本を、その中心都市東京のイメージを見事に復興を遂げた新生ニッポン国として喧伝する為にも、その委員会は意義があったのだ。
その為もあって、いわゆるエリートでかつ才媛で美貌の女性が第一線の職位として配置されていた。

あらかじめ連絡して、上司に承認を受けた社会見学だったし、訪問客が絶えないらしくて、二人が一礼して入室しても誰も見向きもしない。
オドオドしてまごつく真里を庇うようにして、香山は受け付けの女性に一礼して学校からの依頼文を見せた。
にこやかに微笑んだ女性は、年長らしい説明者にバトンを渡してくれる。

香山は知性美に満ちた大人の女性たちを相手に、殆ど物怖じをしてなかった。
それどころか、要領良くをテキパキと質問を伝えて真里を驚かせた。
彼女は相手の女性の説明よりも熱心に聞く香山の横顔に思わず見とれてしまった。

男らしく整った横顔が素晴らしく素敵に見えてしまった。
古めかしい戦前からのビルの一室で、彼女はまるで場違いの熱に浮かされていた、、、。


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