見出しの写真は、ご存知ランドマークタワーと日本丸です。みなとみらい21のシンボルですが、この街の最寄り駅がJRと東横線が乗り入れる桜木町駅ですね。
現在は近代建築の粋を凝らした真新しい市庁舎の所在地でもあります。
この桜木町駅が1872年「汽笛一斉新橋を」で有名な陸蒸気の終着駅、つまり当時の横浜駅だった事は意外と知られていません。
昨日の話で、今の桜木町一帯から横浜の街が開けたことと最初の「横浜駅」が桜木町駅の前身であったことは頷けます。
では、どのようにして現在の横浜駅に移転したかという歴史秘話は残念ながら本著には載っておりませんが、「ここで何が起こったか」と追っていくと桜木町辺りは興味津々に思えてきます。
桜木町は江戸末期、海岸が迫り芦沼に覆われていたそうです。
店は勿論人もいない場所を開拓のため埋め立てることになりました。
この埋め立て事業に尽力し、その力で今の桜木町の礎を作ったが、ハマの風雲児、高島嘉右衛門(横浜駅前にある高島屋とは全く関係ありません)です。
彼は横浜発展の祖、横浜三名士の一人です。
私は「高島易断(筮竹を使う占い)の祖としてしか、この人を知りませんでしたが、知れば知る程魅力的な人物です。
今回は書物をちょっと離れて、彼の一代記に軽く触れてみます。
江戸三十間堀の商人の家に生まれた彼は生家が借金で没落した後、若くして単独で事業を起こします。その時ご禁制の小判の売買に手を出して投獄されました。獄中で易経を読みふけって研究したところから、後年易断の祖となる訳です。
出獄後、彼は懲りずに再び事業を始め財を成します。才能があると共に人望も篤い人であったのでしょう。
さてこの事業は、人を集め野毛山の土砂を運んで今の戸部駅から青木町あたり(かなり距離があります)の海辺を全て突貫工事で埋め立てたのです。それを全て彼は自費で賄ったというから、驚きです。
さらに、埋め立てた中央部分を鉄道敷設用地として、時の政府に献上しました。
その時残りの土地を自分のものにしましたが、時の政府がこれを彼の姓をとって「高島町」と名付けたのです。
彼はこの高島町を遊郭地として栄えさせたという事で、硬軟併せ持つ人だったのですね。
今も馬車道辺りでその面影を残すガス灯も彼が建設したとか。さらにこれを彼が営む旅館や芝居小屋の照明に使ったそうで、この物凄いエネルギーは一体どこから生まれたのでしょうか?
ちなみに彼の易断は非常に的中率が高かったそうですが、生涯金儲けに使うことはありませんでした。そして易断の跡継ぎを作ることも全くなかったそうです。
今の高島易断がどこで残ったかは私は存じませんが。
彼は82歳(当時としては非常に長命)で世を去りますが、天才型の人物だったと言っていいと思います。彼の子孫はごく平凡な人ばかりだったと言いますから、このような傑出した人を生み出したのも、又維新の時代の賜物だったのかも知れません。
堅苦しい話は別にして、春のいぶきがそここで見えます。
私が育てている(?)小松菜の花も開花しましたよ。
花見に人がはばかられる時代に、花は遠慮することもなく咲いてくれます。