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読書の森

お母さん 最終章


美奈子は勉強や仕事では内容を客観視して進めていく能力はあったが、いざ自分の問題になると客観的に俯瞰する能力が欠けていた。
俊一との恋愛においても、結婚生活においても然りである。
この時も、慎重な佐原が何故この様なメールを出したのか探る気持ちすら湧かなかった。

二人だけで会おうなどと誘われたのは、初めてである。
若い娘のように胸がときめいて、OKの返事を出すのに戸惑いがなかった。

程なくして佐原からメールがきた。そのメールのアドレスはいつもと異なっていた。家人に見つかると困るので、臨時のメールアドレスを使ったと言う言葉に疑いも持たなかった。

場所は赤坂の高級ホテルのロビー、そのホテルのイタリアンレストランで食事しようと言う。美奈子は夢心地になった。
あれこれと着ていくモノを選び、髪をセットした。

金曜の夜7時二人きり。美奈子は怖いほど胸が騒いだのである。



その金曜の夜。
「ねえお父さん、改めて聞くけど」
ソファーでごろ寝していた俊一は怠そうな顔を向けた。
「お母さんの事最初愛してたよね」
父は面倒くさそうに頷く。
紗奈はなお言葉を続けた。
「何故惹かれたの?」
「なんだ?今更。俺の好きなタイプの美人だったからさ」
「それだけ?」
俊一はふいに遠い目をした。
「かわいそうだったから。俺は親に(つまり爺さん婆さん)に愛想を尽かされてた。兄貴とは全然違って不良だったからね。その不良にコロッと騙されたお前のお母さんは思い切り世間知らずだった。その時もう肉親と呼べる人がいない。よるべない少女みたいに可憐に見えたから」

その先を続けようとしていた紗奈は絶句した。
ホントは「でも今は大違いね。お父さんよりずっと仕事出来るなんて威張ってるし、全然可愛くないよね」と話を続けたかった。
更に「この頃お母さん綺麗になったよね。気にならない?」と聞くつもりだった。

これ以上の質問を父が拒否しているのを察知したからである。当初は俊一なりに能力への自負もあった、しかし漸く生活が安定した時世間並の幸せを与えられない事を自覚したのかも知れない。
「お前は俺に似て野育ちでも大丈夫だけど、お母さんは違うからな」
「酷い事言うのね!」

若い日の面影をすっかり失って、未だ老人とは言えないのに、何もかも諦めたような父の顔だった。

「ごめん、お父さん今から出かけるから!」
「なんだ?」
「カレー作ってあるから温めてね。今お母さんから携帯届いたんだ(嘘である)」
「今日例のクラス会じゃないのか」
「よく知らないけどとても困ってるみたい」

紗奈は普段着の上からよそ行きのオーバーをはおっただけで、ショルダーを手早く肩にかける。
「早く行かないと!」
驚いた表情の父を尻目に外に出た。

不意に胸が苦しくなるような後悔が紗奈を苛んだのである。
「早く行かないと。お母さんどうなるか分かんないから!」


紗奈は最近こっそり母の携帯を盗み見するようになった。

無防備な美奈子の持ち物を調べるのは、とても容易に出来た。
母の佐原への恋心などとっくに掴んでいたのである。

例の佐原のメールを読んだ後、紗奈は佐原に会いに出かけた。
彼の携帯に直接電話をかけて、会議終了後近くの喫茶店で会ったのだ。佐原は当惑した様子も無く、あっけなく紗奈の要件を了承した。

予想以上に佐原は貫禄のある男だった。どこから見ても青春期の面影など宿していない。家庭は家庭でしっかりと守る遣り手の上司のイメージピッタリである。
ヒョロヒョロした頼りなげな自分の父親と比べて、紗奈は脱力感に苛まれた。

「やあ、娘さんですね。初めまして僕はお母様と同期の佐原と申します」
紗奈はドギマギするだけだった。
佐原の話は拍子抜けするものだった。
近く中途退社して札幌市内の妻の実家の営む会社の経営者となるそうだ。
そこで、上京して残務整理方々、昔の友人と会う計画を立てたと言うのだ。

「じゃあ会議というのは嘘なのですか?」
「社内会議ではありますので」
「日程は?」
「もうすぐよそものになりますのでね。社外に漏れても全然心配ない事だけで。
近くに美味しいステーキの店がありますので、美奈子さんをお誘いしたいと思ったのです」

不意に紗奈はソツの無いこの男が大嫌いになった。
この人に美奈子の持つ傷口など分かる筈もないのだ。

同時にこんな世間ズレした男に惹かれた母が憎くなった。

「ご厚意はとってもありがたいのですが、最近父親の具合が思わしくなくって、母はご辞退したいそうです」
「ご丁寧にお嬢様が来ていただいた訳ですね。恐縮です。どうかくれぐれもお大事に。お母様にはマドンナに再会できて幸せだったとお伝えください」

言葉半分に聞いて紗奈はその場を去った。
そして、むしゃくしゃする思いのまま赤坂デートの偽メールを母に出したのである。



美奈子は頼りない顔つきで豪奢なホテルのロビーに佇んでいた。
会う人会う人、皆階級が異なるリッチな雰囲気を身につけていた。

精一杯オシャレしたつもりの毛皮のコートは如何にも時代遅れで、気がつくと防虫剤の匂いがした。
約束の時間が30分も過ぎている。
人待ち顔に肩を窄めて隅に立つ自分が貧相に思えて、美奈子はただ惨めだった。

更に30分経った。
メッセージのアドレスに問い合わせたが、メーラーエラーで返った。
誰かのイタズラだとやっと悟ると悪寒が走って崩れ折れそうになった。

紗奈は、その母の後ろ姿を見て胸が詰まってきた。
若くて綺麗で頭が良くってと思い込んでた母が一変して見えた。
キラキラ輝くホテルのロビーに佇むその女は、若くも美しくも頭が良さそうでもない、流行遅れの不似合いな毛皮のコートが重たそうな老女としか見えなかった。
その細い肩を紗奈は抱きしめた。

「わたし の お母さん」
「あら、紗奈じゃないの。ええ?どうしたの?こんなとこで」
美奈子の顔はホッとして無邪気に綻んだ。
安心した母の顔はいつもの若さを取り戻したようだった。

「なんかこの頃様子が心配なのでついて来たの。凄いねここ!もうどこにもヒョコヒョコ行かないで!」
「そうねえ、変なのに騙されちゃったみたい。怖いねえ」

娘がわざと騙したことなどつゆほども疑わない美奈子である。
母の華奢な姿がこれほど愛しいのだったと紗奈は初めて知った。

頼りない人間の寄り集まりでも、私たちは確かに家族だ。
私だけのお母さんだ、紗奈は潤んだ目を母に見せないように元気良く言った。

「お腹空いたでしょう?お母さん。駅中で熱いおうどんでも食べようよ。あっ毛皮だったよね。じゃサテンでホットケーキでも食べない?」



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