正確には
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、
仇は敵なり」
即ち、「一国を治める時、人心に寄り添い大切にする事が肝要で、住む人の気持ちに寄り添えば人が付いてくるし、住人を敵視すればそれが伝わって人心が離れていく」
という事。
又、地政学から歴史を考えると、甲斐国(今の山梨県)は急峻な山が囲んでそのまま防壁になり、居城を護れる為、武田信玄は生涯居城らしい城には住まず、屋敷で寝起きしたとの事です。
甲斐国は鉱山には恵まれていたものの海が無く、農産物に乏しい為、耕地を広げる必要があります。
武田信玄は、歌の文句通り人民を大切にして、かつ国の富を増やす為勢力を拡大した名君です。
彼は相模の北条、駿河の今川と姻戚関係を結び、同盟の形をとってお互いの勢力を伸ばします。
彼は相模の北条、駿河の今川と姻戚関係を結び、同盟の形をとってお互いの勢力を伸ばします。
武田信玄は甲斐国だけでなく信濃も手に入れたのです。
彼の宿敵、上杉謙信の進出に歯止めをかける意味もあったのでしょう。
金山鉱山を振興して、相模の職人に手厚い保護をして加工させ、武器や貨幣を作り、一方で治水工事を起こして農民を保護したそうです。
彼は内政に優れ、かつ勇猛な武将でもあります。
しかし、この名将も家庭の中ではかなり問題があったらしい。
父親信虎は二人兄弟の内、癖の強い長男信玄を嫌い、温厚な次男を跡継ぎにしようとします。
彼はこの父を領外に追い出し、永久追放とするのです。二人の不和は非常に根強いものがあったそうです。
ただし、彼の突然の死の後、国は戦いに敗れ、ガタガタになってしまいました。
一代の英雄だった訳です。
武田信玄は優れた領主でしたが、彼の周りの女達にとって良き子、良き夫、良き父親だったか?と言うとそうでない。
仮にも城主だった夫を追放された母親は複雑な思いがあったろうし、全く知らない土地に嫁がされた娘たちも慣れない暮らしで大変だったでしょう。
おまけに彼は色好みで複数の女性を側室としました。それなりのトラブルもあったらしい。
それでも「情けは味方 仇は敵」が空疎に言葉になるか、という話でない。
ともすれば角の立つ自分の言動を戒める為にも、人情家だった信玄に倣って周りに嫌われない日常生活を心がけていきたいです。