悪魔とは何か?
創世記では、三位一体の神に似た者として造られた「妻」と名づけられた女をそそのかして、神の禁を犯させた張本人であり、ヨブを陥れ、大祭司ヨシュアを訴えようとした者であり、その最後は神によって永遠の恐るべき苦しみの中に投げ込まれるのである。
すると蛇に身をやつした悪魔は言った。「死ぬなんてことはありませんよ。それを食べたら、今まで見えなかったものが見えるようになりますし、あなたが神様のようになって、善悪を知ることができるようになることを、神様はご存じなんですよ。」
この創世記、第3章でも分かるように、悪魔の言っていることは始めから“偽り”なのである。この点では偽預言者も同じであり、最終的には悪魔も偽預言者も、獣と一緒に永遠の恐るべき苦しみの中に投げ込まれるのである。
偽預言者や占い師たちの決定的な過ちとは、自分の運命や不幸、自分の身に起こる災難などを知ることができるか? という矛盾が常に付きまとうことに気付いてないということなのである。
イザヤの預言ではこう書かれてある。
第29章。
主が、あなたを霊的に盲目にし、
偽預言者の心の目を閉ざしてしまわれる。
第47章。
「……
だから『私は他の者と違う』などと
言っている。
しかし災いがお前に下る。
それを呪術の力で払いのけることはできない。
災難が襲っても、避けることはできない。
突然、破滅がやって来る。
……あらゆる呪術でやってみるがよい。
星占いもいるし、預言者と称する者もいる。
彼らの力で救えるかどうか、やってみるがよい。
彼らはわらのように火で焼き滅ぼされ、
自分すら救うことことのできない者たちだ。
お前たちを救うどころではない。
お前たちが頼っている呪術者は、
皆このような有様で、自分自身迷い出、
お前を救うことなどできはしない。」
偽預言者や占い師たちは、自分たちに降りかかる災難から自分自身を救うことができない、のである。
神から祝福を受けた者は、長寿を全うできる。悪魔に呪われたヨブでもである。
しかし悪魔と同類にされる偽預言者には、「突然、破滅がやって来る」のである。
他人の不幸を平気で語る偽預言者や占い師は、自分自身に降りかかってくる突然の不幸から逃れられないことで、その偽りが明らかとなるのだ。
ゼカリヤの預言では「……偽預言者たちは、自分の語ったことが成就しないので、恥をかく」と書かれている。
これは預言であろが、予言であろうが同じことなのである。
「未来が分かる」、「未来に起こることを知っている」と言って、人々の災難を語った時点から、“自分の運命や不幸、自分の身に起こる災難なども知っているはずだ”という必然は預言者・予言者に、それこそ永遠に付きまとうのである。
宗教的な預言者にしては、神から召命されていることから、祝福を受けて長寿を全うするのである。ヨブのように。
それで偽預言者とは、自分自身にしても迷い自分をも救うことができない、という存在なのである。
悪魔も偽預言者も、結局は言っていることは同じであり、私は知っている、と偽るのである。この点に関して、予言者、も同じであり、悪魔に「今まで見えなかったものが見えるようになりますし、あなたが神様のようになって、善悪を知ることができるようになる」と、そそのかされた一人なのである。だからこそ“自分の運命や不幸、自分の身に起こる災難なども知るはずもなく”、結局、自分自身にしても迷い自分をも救うことができない、のである。
たとえ、どんな有名な予言者であろうと、たとえばそれが、世界的に有名なジュセリーノ氏にしても、世界的に有名だからこそ、偶然の災難や事故に遭うことは許されず、偶然の災害に見舞われることも許されないのである。なぜなら彼らは“自分の運命や不幸、自分の身に起こる災難なども予知できるはずだから“である。
ジュセリーノ氏にとっては、どんなに偶然に起こった事故も事件も災害も、確かに存在しているというレコード化された情報に過ぎないのだから、だ。自分の身に起こる偶然にしても、自分の人生にしても、それは同じことである。自分自身に降りかかる危険について「分かりませんでした」などとは、預言者であればなおさらだが、予言者としても決して言えないことである。
これこそ占い師や予言者のパラドックスと言えるものだ。
だからこそ、思慮深い人たちは、どんなに直感力が優れていても、自分自身を“予言者”などとは言わないのである。
これらの点で、偽予言者とは、やはり悪魔にそそのかされた人間であり、「今まで見えなかったものが見えるようになりますし、あなたが神様のようになって、善悪を知ることができるようになる」と信じ込まされても、本質的には予言者としての矛盾にも気付くことができないのである。
人気ブログランキングの「ニュース」が検索できます。
創世記では、三位一体の神に似た者として造られた「妻」と名づけられた女をそそのかして、神の禁を犯させた張本人であり、ヨブを陥れ、大祭司ヨシュアを訴えようとした者であり、その最後は神によって永遠の恐るべき苦しみの中に投げ込まれるのである。
すると蛇に身をやつした悪魔は言った。「死ぬなんてことはありませんよ。それを食べたら、今まで見えなかったものが見えるようになりますし、あなたが神様のようになって、善悪を知ることができるようになることを、神様はご存じなんですよ。」
この創世記、第3章でも分かるように、悪魔の言っていることは始めから“偽り”なのである。この点では偽預言者も同じであり、最終的には悪魔も偽預言者も、獣と一緒に永遠の恐るべき苦しみの中に投げ込まれるのである。
偽預言者や占い師たちの決定的な過ちとは、自分の運命や不幸、自分の身に起こる災難などを知ることができるか? という矛盾が常に付きまとうことに気付いてないということなのである。
イザヤの預言ではこう書かれてある。
第29章。
主が、あなたを霊的に盲目にし、
偽預言者の心の目を閉ざしてしまわれる。
第47章。
「……
だから『私は他の者と違う』などと
言っている。
しかし災いがお前に下る。
それを呪術の力で払いのけることはできない。
災難が襲っても、避けることはできない。
突然、破滅がやって来る。
……あらゆる呪術でやってみるがよい。
星占いもいるし、預言者と称する者もいる。
彼らの力で救えるかどうか、やってみるがよい。
彼らはわらのように火で焼き滅ぼされ、
自分すら救うことことのできない者たちだ。
お前たちを救うどころではない。
お前たちが頼っている呪術者は、
皆このような有様で、自分自身迷い出、
お前を救うことなどできはしない。」
偽預言者や占い師たちは、自分たちに降りかかる災難から自分自身を救うことができない、のである。
神から祝福を受けた者は、長寿を全うできる。悪魔に呪われたヨブでもである。
しかし悪魔と同類にされる偽預言者には、「突然、破滅がやって来る」のである。
他人の不幸を平気で語る偽預言者や占い師は、自分自身に降りかかってくる突然の不幸から逃れられないことで、その偽りが明らかとなるのだ。
ゼカリヤの預言では「……偽預言者たちは、自分の語ったことが成就しないので、恥をかく」と書かれている。
これは預言であろが、予言であろうが同じことなのである。
「未来が分かる」、「未来に起こることを知っている」と言って、人々の災難を語った時点から、“自分の運命や不幸、自分の身に起こる災難なども知っているはずだ”という必然は預言者・予言者に、それこそ永遠に付きまとうのである。
宗教的な預言者にしては、神から召命されていることから、祝福を受けて長寿を全うするのである。ヨブのように。
それで偽預言者とは、自分自身にしても迷い自分をも救うことができない、という存在なのである。
悪魔も偽預言者も、結局は言っていることは同じであり、私は知っている、と偽るのである。この点に関して、予言者、も同じであり、悪魔に「今まで見えなかったものが見えるようになりますし、あなたが神様のようになって、善悪を知ることができるようになる」と、そそのかされた一人なのである。だからこそ“自分の運命や不幸、自分の身に起こる災難なども知るはずもなく”、結局、自分自身にしても迷い自分をも救うことができない、のである。
たとえ、どんな有名な予言者であろうと、たとえばそれが、世界的に有名なジュセリーノ氏にしても、世界的に有名だからこそ、偶然の災難や事故に遭うことは許されず、偶然の災害に見舞われることも許されないのである。なぜなら彼らは“自分の運命や不幸、自分の身に起こる災難なども予知できるはずだから“である。
ジュセリーノ氏にとっては、どんなに偶然に起こった事故も事件も災害も、確かに存在しているというレコード化された情報に過ぎないのだから、だ。自分の身に起こる偶然にしても、自分の人生にしても、それは同じことである。自分自身に降りかかる危険について「分かりませんでした」などとは、預言者であればなおさらだが、予言者としても決して言えないことである。
これこそ占い師や予言者のパラドックスと言えるものだ。
だからこそ、思慮深い人たちは、どんなに直感力が優れていても、自分自身を“予言者”などとは言わないのである。
これらの点で、偽予言者とは、やはり悪魔にそそのかされた人間であり、「今まで見えなかったものが見えるようになりますし、あなたが神様のようになって、善悪を知ることができるようになる」と信じ込まされても、本質的には予言者としての矛盾にも気付くことができないのである。
人気ブログランキングの「ニュース」が検索できます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます