謎のライダーが変身した怪人ゴ・バダー・バに、クウガは苦戦を強いられた。戦いの後、一条と合流した雄介は、未確認生命体の犯行に法則性があることを推測する。一方、ついさっきまで泳いでいたプールが未確認生命体の犯行現場になったことを知り、ショックを受けた恵子はお腹に子供を宿していたため、大きな不安を感じる。
「被害を受けたプールの頭文字が音階を表してる」←理解できる
「被害者数が2人なら二分音符」←具体的にはわからないけど、なんとなく
「大人8人こども16人は、おそらく八分音符に十六分音符の長さを足したもの
つまり、付点八分音符」←?????
つまりどういうことだよ!と叫びたくなったけれども、
「その推測に従ってこのピアノを弾いてみます。ショパンの革命のエチュードです」
一条さん、何者だよ!!!
しかも、何の指定もなかったミを黒鍵で弾いちゃうし。チートすぎるだろ!
あぁ、確かに楽譜のミには 何の指定もされてないけれど、
だとしたら、最初にハ短調であるという指示をだな(wikipediaで調べてきた)
というわけで。一条さんの推理力が半端なかったおかげで
次の犯行場所が割れて、あっさり倒されてしまいました。
前回のゲゲルは、ひとつの区で9人ずつ殺すルールだったようです。
この「9人ずつ」っていうのが、実はグロンギの人たちは9進法を使用してるらしいので、
なんか「おおお!」って思いました。
いや、この数の数え方とか訳わかんなくて本当にすごいんですけどね。(参考:グロンギ数学考)
ところで前回からOPの画が変わったんですけど、
五代くんの姿、両手を前に揃えて立つ姿が、なんか拘束されてるように見えるんですよね。
前回のOP映像も、鉄条網が絡んだように見える姿だったし。
こんな奔放な主人公なのに、イメージは「何かに拘束された姿」なのが、不思議っていうか怖い。
(2016/10/22 追記)2周目感想
本編とはまーーーったく関係ないんですけど。
紫のクウガ、一番好きなフォームとして挙げる人が多いし、オダギリさん自身も「一番好き」と仰ってるんですが、
私はどうにも、あの戦い方を好きになれないんですね。
「敵の攻撃を正面から受け止めて、痛くても辛くても耐えて前に進む」っていう戦い方。
考えてみたら、あの戦い方はクウガの生き方そのものなんだよなって。
んで、先日アギトを見終わったんですけど、あれには「他者のために戦わない/自分のために戦う」という、
クウガへのアンチテーゼとしての側面もある、という解説を読んで、あぁなるほどと。
アギト46話。アギトの力を失った翔一くんに対して真魚ちゃんが「戦って!」と叫ぶんですけど、
それは人々を、みんなの命を守るためじゃない、翔一くんの命を守るために。
そして翔一くんが助かることで、初めて周りのみんなの命が守られるんだ、っていう。
アギトという物語は、生き残った翔一くんがレストランを始め、
みんなに美味しい料理を提供する、みんなに笑顔を与えるシーンで終わるんです。
やっぱ生きてなきゃダメなんですよ、死んだら終わりなんですよ。
クウガという物語は本当に好きだし、そのあり方はひたすらに純粋で美しいと思うけれど、
自分の大事な人に、あんな生き方だけは、決してやって欲しくないと思うんです。
五代くんはとっても魅力的な人物で、自分のこどもがあんな風に育ってくれたら最高なんだけど、
クウガとなってからの彼の生き方だけは、絶対にやって欲しくないんです、絶対に。
辛いときは、辛いって言って欲しい。
怖いときは、怖いって言って欲しい。
周りに助けを求めて欲しい、愚痴を言ったっていい。
自分ひとりで抱え込んで、自分ひとりが犠牲になれば済むだなんて、そんなこと思って欲しくない。
とは言え。五代くんについては相談されたところで、結局ほかの人には何の肩代わりもできないっていうのが
なんかもう「ああああああ!」ってなるので、思考の堂々巡りにはまるんですけどね。
うーん、クウガという物語自体が、ヒーローを描きつつそれを否定するという作りなので
そう簡単に割り切れないようになってるんですけどね。だから囚われてしまうんだよな(苦笑)
まぁ、クウガが「力による解決を否定する社会的に発展した世界」の物語であるのに対し、
井上先生は「生きる力を重要視する、わりと原始的な世界」をベースにされているので、
五代くんと翔一くんの生き方をただ並べて比較するのもおかしいって話でもあるんですけどね。
うーん・・・この辺はもう、見た人の数だけ正解があるみたいな話だな。
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