■被災者には分かる、パフォーマンスの菅そうりと慈愛溢れる天皇皇后両陛下
先日にこんな記事を書きました。
そして今日は先日の菅総理の被災地慰問について。
いくら菅総理が日本人嫌いだからって、被災者無視したらイカンだろう。
菅が避難所訪問行って、無視されたあげく「え?まだ何かありますかぁ?」って
そりゃ詰め寄って怒りたくもなる。
しかも10分程度しか居なかったと言うから、パフォーマンスって思われて当然だ。
【これはひどい】被災者に詰め寄られる総理大臣【モゴモゴ】 ← ここをクリック
菅よ、被災者の慰問ってのはこうやるんだ。
被災者は心から心配されての慰問とパフォーマンスの慰問の違いくらい感じ取るんだ。
天皇皇后両陛下、東京都内の避難所を訪問される ← ここをクリック
ちなみに阪神大震災のときも、当時の社会党(民主党の前身)の村山首相と
天皇陛下の慰問はまさに被災者にとって天と地ほどの違いだったようです。
村山首相は腕組みしながら避難所の体育館を一回りしてすぐ撤収。
一方、天皇皇后両陛下は一人一人の被災者に同じ目線で跪き、励まされた。
大勢の被災者全員に対して膝を付かれた為、帰る頃には両陛下のズボンの膝は
ボロボロに擦り切れて穴が空いていたという。
それを見て多くの被災者が涙を流され、復興に向けた力になった。
日本と日本人が嫌いな左翼の連中の慰問と、
日本の君主として本当に日本国民を心配なされ励まされる両陛下の慰問。
何もいう事はありません。
以下は当時体験者のインターネット書込みを紹介します
○388 名前:?底名無しさんダーバード 投稿日: 03/01/20 22:59 ID:UGx1q9eh
>>382 ?
私が西宮の避難所にいるとき、天皇陛下と皇后陛下が訪問してくださいました。お付きの方もいらっしゃいましたが、天皇・皇后両陛下は御自分で動き回られ、 避難所にひかれた毛布の上に膝をつかれて、避難所にいるほとんど全ての被災者を慰め、励まされておられました。その姿を見て、思わず背筋が伸びたものです。また、両陛下のお姿を拝見していますと、言葉では言い表しがたい勇気のような ものが湧いてきたのも覚えています。
○227 名前:?文責:名無しさん 投稿日: 01/10/09 20:47 ID:CyHxVW0s
阪神大震災とき村山首相が行っても避難所被災者はソッポを向いていたが、両陛下の行幸啓には皆感激し、涙を流す人もいた。 皇室は常に国民とともにあるのだ。理屈ではない。
○811 :名無しさん@6周年:2006/04/11(火) 09:27:00 ID:H8Z1b5en0
皇族の地方公務には意味があるよ。私は阪神大震災経験者。避難所でじっと座っていたら、明日天皇皇后両陛下がいらっしゃるという話を聞いた。マスコミの無神経取材攻勢につかれきっていたし、こんな時になんだよ…と半ば腹立たしく思っていた。両陛下がいらして、私は自分のスペースで座ってた。そうしたら、うつむいた視界に、細い膝頭が目に入った。顔を上げたら、ものすごく優しそうな、でも悲しそうな笑みを浮かべた皇后陛下がいらした。『ご家族はご無事でしたか?』と言われ、『妹が…』と答えたら、言葉が続かなかった。妹は、目の前でゆっくり崩れていく
建物の下敷きになった。すると、皇后陛下が柔らかく私の手を包んでくれて、『どうか、しっかり生きて。がんばってね。しっかり生きてね』と仰った。お声が震えていらして、まともにお顔をみることは出来なかったけれど、涙ぐんでおられたようだった。あの手の温かさ、優しい気品のある声は、 すさみきった心になんともいえない力をくれたと思う。今でも忘れない。
○自分は震災当時神戸市民でした。幸い避難所生活はまぬがれましたが、避難所が設立されなかった地域が故に食料などが入手困難になり、かと言って眉毛首相はのん気な発言の繰り返し、完全に孤立した状態で絶望的な気分になっていました。避難された住民なら絶望感はもっと大きかったでしょう。そんな中、天皇・皇后様の避難所訪問のニュースで涙が止まりませんでした。自分達は見捨てられていない、希望を持って前向きに復興へ向かっていこう、とどれだけ勇気付けられたか。
○被災地の体育館で両陛下を見た者です。お年寄りの方なんて泣いていらっしゃいましたよ。私も大変感激しました。三宮のほうでは右翼の活動家の人も炊き出ししていました。自衛隊の方々の活動も大変丁寧でした。(全壊した家を片付けていただきました)それに引き換え社会党首相のあの態度。マスゴミのあの態度。ニュース報道。神戸市民として忘れはしません。危機的な状況でこそ本当の人間の姿が見えると教わった震災でした。
Posted by マジレスでスマソ at July 24, 2006 21:33
○阪神大震災と皇后陛下、といえば思い出すのが今はなき"FOCUS "に載った一枚の写真。皇后陛下にお声をかけられ、被災以来張りつめていた気持ちがプツンと切れたのか号泣しながら胸にすがりついてしまった若い女性と優しく抱き寄せられる皇后陛下。思い出すだけでなんだか涙が出てしまう。
Posted by ばびろん at July 24, 2006 21:14
○震災・・・いろいろありした 激安で弁当を売っていた弁当屋に長蛇の列ができて列を乱しながら取材、その後行列を尻目にすぐそばでにこやかに自前の弁当を食べていたT〇S。別の肉屋で、これまた激安でブタマン5こ百円というのを聞きつけ行列を無視の上取材をし流れを止め、キレた人(最初は自分です)に次々に文句を浴び逃げてったTV局(どこかは不明)。こんなクズどもに比べりゃ陛下の行為は全然心がこもってます。
Posted by 通りすがりの神戸市民 at July 24, 2006 21:43
皆さんも記憶に新しい阪神大震災が起こったのは、平成七年一月十七日早朝のことでした。亡くなった人々は六、三〇八人、怪我をした人は四万一五〇〇人にものぼりました。一瞬にして家が崩れ、炎がものすごい勢いで街を包みます。崩れた家の下敷きになった家族がまだ生きているのに助け出すこともできません。危うく逃げ出せた人も、凍てつく寒さの中に放り出されたのです。生き地獄だ、と人々は思いました。深い悲しみの中で人々は地域の小学校などで避難生活を始めました。
しかし、お腹がすいているのに食べ物は届かず、病院には怪我をした人があふれ返っています。電車やバスなどの交通は断たれ、電話も通じません。被災地の人々を助被災者を温かく励まされる天皇・皇后両陛下(神戸市)けにいくことも思う通りになりませんでした。
それでも、自衛隊や民間で援助にあたる人々のお陰で、一人、また一人と救い出されていきました。その様子をテレビで見た人々は「ああよかった。」とほっとしました。それでも、家や家族を失った人々の悲しみは深く残ります。
そのような中でのことでした。天皇陛下は皇后陛下とともに、被災地を訪問されました。そして、悲しみで沈みきった人々に、膝をついて言葉をかけられ、手を握って励まし続けられたのです。
人々からは口々に「天皇さま、皇后さま、ありがとうございます。」と感謝の声があがりました。
「子供たちも悲しい思いをしている時に、両陛下から『希望を持って生きてください』と言われうれしかった。これからの生活に励みが出てきました。」(三十代の女性教諭)
「皇后さまが手を握ってくださって、あたたかいお手やった。」(神戸市長田区の被災者)
人々は?両陛下が自分たちの悲しみをご存知でいらっしゃる?と思うと胸が熱くなりました。
また、北海道南西沖地震が奥尻島を襲ったのは、平成五年七月十二日のことでした。死者・行方不明者あわせて一九八人。特にひどかったのは、地震の後の津波による被害で、沿岸の家や人は一瞬にして飲み込まれ、暗い夜の海にさらわれてしまいました。
陛下はすぐに奥尻島の各所をまわって被災者をご慰問になり、心から励まされました。
それから五年後の平成十年三月、奥尻島では仮設住宅で暮らしていた島民すべてが、家にもどることができ、また堤防を整えるなど災害に強い町づくりを実現し、復興をなし遂げました。そして、亡くなった方々の慰霊碑も建てられました。
復興の様子をお聞きになった陛下は次の御製(天皇陛下の和歌を「御製」と言います)を詠まれました。
「五年の昔の禍を思ふとき復興の様しみてうれしき」
五年の間島民の受けたわざわい(禍)を思い、復興を祈り続けてこられたお気持ちが「しみてうれしき」(しみじみとうれしい)という言葉となってあらわれたお歌です。
このように、天皇・皇后両陛下は、喜びも悲しみも常に国民とともにされています。そのお心は、被災した人々にとって明日への希望と生きる力になっているのです。(一部略)
ただ、敗戦により占領憲法を押しつけられ占領皇室典範をおしつけられ、陛下も臣も民もみな今現在も赤を内包する戦勝国の築いた赤い占領体制に縛られ衰退し滅ぼされつつある囚われの身です。
安倍総理大臣ですら占領体制(戦後レジウム)からノ脱却に失敗しており、それどころかおそらく圧力により占領体制を強くなぞってしまっています。
どうにか占領憲法を無効確認し破棄して帝国憲法を復元し占領教育を砕いて日本の教育を取り戻して、この占領体制を打ち砕く努力しています。
しかし、日本は赤を内包する戦勝国政力が築いた影響力のある情報媒体により国民を欺き煽動傀儡する傀儡政治なのでかなり難しいです。
けれども命にかえてもそれを行わなければ為りません。
困難な道ですがともにがんばりましょう。