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阿部卓馬ブログ

北海道新ひだか町サポート大使のシンガーソングライターです。ライブ告知、活動情報などを中心に更新しております。

善と偽善

2010年10月31日 | 思索
善と偽善を見分ける方法がある。

偽善は、注意深く観察すると、ところどころで「私は善である」と主張している。
そしてそれを他者に対して認めさせようとする。
それは言葉であれば分かりやすい(「自分がやってやっている」など)が、態度や表情、行動にも表れる。

善は、注意深く観察しなければ、その存在に気づけない。
善とは、何も主張せず、何も求めず、ただそこにあるもの。

もし誰かがその善に気付いたのならば、気づいた人が幸福な気持ちになるだろう。

たとえそこに、その善を施した人や自然がいなくとも。

1%の行動と99%の観察

2010年10月30日 | 思索
行為することのワンサイクルにおいて、その内訳は1%の行動と99%の観察がもっとも効率的だ。

ある行為は始めてしまえば、その行為を強制的に終了させない限り、終わりまで継続する。その行為の継続中に行為者がすべきことは、その行為の過程で起きる内外の出来事を視覚・聴覚・触覚などで神経的に感知して脳に記録することだけである。

観察の伴わない行動は、人間の正常な思考のフィードバックから逸脱するだろう。

無制限

2010年10月29日 | 思索
本来人や生物には、その身体能力の範囲で、思考と行動に制限は与えられていない。

今日も世界中で、一生懸命自分に制限をかける自我が無数にうごめき出す。

たった一日でも良いから、無制限な感覚を味わってみたいものだ。

それが、今日かもしれない。

マジック

2010年10月28日 | 思索
あるマジックを、3人の人が見ていた。



ひとりは、まったく初めて見る様子で、純粋に驚きその仕組みを夢中で考えていた。

ひとりは、そのマジックのタネを知っており、自分でもやったことがあるようで、そのマジシャンの手際の良さに驚嘆していた。

ひとりは、初めて見る様子で、そのマジックのタネを知らなかったが、「どうせイカサマだろう」と一言つぶやいていた。



初めての経験はもちろん驚きである。
2回目の経験も、3回目の経験も、視点を変えていくといくらでも驚きはある。

自我を優先させた場合は、時に、初めての経験さえ奪い去る。

自我は100%正しい結果を出すことは無い。

2010年10月25日 | 思索
【自我は100%正しい結果を出すことは無い。】

「これが私だ」と思っていることは誰しも必ずある。
こういうときには私はこうする、といった、自己の規範となるべきものである。
各個人の経験や思考方法などで構成され、それは個性と呼ばれ、一人一人まったく違ったものとなって、人間社会はそういった人々が構成する多様なものとなっている。

そこで、果たしてそのそれぞれの自我というものを検証していったときに、その規範が「100%正しい」ということはありえるだろうか?ということを考察する。

■カレーが好きな人の話

例えば、「私はカレーが好きである」といった自我があるとする。
あるとき、見た目はカレーだが味がまったく好みとは違うカレーを食べたとする。
結果として、当然「私はこのカレーは嫌いだ」という結果が導かれるが、前提として自我が用意してある「私はカレーが好きである」というものが否定されることになる。
そこで自我はその見解を再構成して、「私は○○のカレーが好きであり、××のカレーは嫌いである」ということが起こる。
そして、自我は次の食べるカレーではそれに見合ったものかどうか検証していき、その結果違えばまた再構成していく、ということが起こる。

たくさんのカレーを食べていくうちに、一番最初の「私はカレーが好きである」ということは間違いであったことに気付かず、今現在の「私は○○のカレーや△△のカレーが好きであり、××のカレーや□□のカレーは嫌いである」ということが自分の真実として100%受け入れられている。そして、これが現時点で正しい、と考える。

次に、再び××のカレーと出会ったときに彼は、「前食べて美味しくなかった」という条件を引き出し、そのときの不快な感情や味を思い出し、仕舞いには食べなくて良いものなら食べない、といった選択を行うかもしれない。

しかし、その××のカレーを作った人は、その後鍛錬を重ねて見た目は同じでも味が一級品になっているかもしれない。そうした場合に彼は、自分の規範である自我の声に従ったがために、そうした経験を体験することも無くその場を過ごしてしまうことになる。

もしここで彼が、「自我は100%正しい結果を出すことは無い。」ということを受け入れていれば、「前は口に合わなかった事実はあったが、それは前のこと。今度はどうだろう?」という気持ちになり、実際食べてみて驚きの変化に驚嘆して、やはり自分が間違っていたことを改めて自覚することになるだろう。

■カレーが好きな人の自我の検証

このようにしてみると、いろいろなカレーを食べ進めているうちに、最初に考えていた「私はカレーが好きである」という前提は細かく分断され、最初の前提が間違っていたことがわかってくる。いよいよ彼は日本で作られているカレーをすべて食べつくしたとき、彼のカレーに関する自我は当初のものよりとても複雑でいわば「通」と呼ばれるぐらいまで発展しているであろう。しかし、さらに海外のカレーには様々なものがあり、その中にはこれまでの経験を超える味のカレーがあるかもしれない。そして海外のカレーを食べ進めていくうちに、日本でのカレーに関する自我は間違っていたことに気付くかもしれない。

カレーは世界に無限に存在するわけではないが、彼の一生でレストランで食べるものから、各家庭で作られるカレーをすべて食べて、完全なカレーに関する自我を形成することはおおよそ不可能である。よって、最後までいろいろなカレーを食べ続けた彼の死の段階でのカレーに関する自我も、その先の様々なカレーを考えると、間違っている、ということが言える。

彼が一生かけて食べてきたカレーに関する自我は、一度も正しかったことはなかったのである。

■カレーが好きな人の正しかったこと

では彼は間違っていたのだろうか?そうではない。彼が次のカレーに駆り立てられたのは、これまでのカレーに関する自我を否定して「まだきっと美味しいものがあるだろう」と考えたからである。彼は「自我は100%正しい結果を出すことは無い。」ということを知っていた。だからこそ、新しいカレーを求め続け、そこには様々なカレーとの出会い、驚きのある素晴らしい人生であった、ということが言えるのである。

もし、彼の自我が途中で「もう自分は食べつくした、すべての美味しいカレーは知った」という気持ちが沸き起こったのなら、その先の彼の経験は、すでに知ってしまったものばかりになってしまうため、退屈なものになってしまっていただろう。

■四角形か三角形か?

別な例で考える。
目隠しした状態で、目の前の四角いプレートがある。「このプレートの1箇所だけ触れて、その形を答えよ」という問題があったとする。その人は、角のとがった部分に触れて、「これはとがっているものです」と答えるだろう。「ではさらにもう一箇所触れて、その形を答えよ」と言われれば、もうひとつの角に触れて、「これは針のようなものです」と答えるだろう。「ではさらにもう一箇所触れて、その形を答えよ」と言われれば、さらにもうひとつの角に触れて、「これは三角形です」と答えるだろう。

ここで、「正解です、これは三角形です」と言われたまま、正解も見ずにその場を去れば、その人には「あそこで触ったプレートは三角形だった」、という記憶が残り、持続する。実物の正解を見るまでは、彼は三角形であった、と言い張るだろう。

もっとも、これだけでは情報が足りない、と考える人も多いだろうが、結局三角形が正解だ、と言われた場合、その人の自我はそう思い満足するしかない。

■日常の自我に対する考察

これら二つの例から、人間それぞれが持つ自我の情報というものは、どこかで「頭打ち」になっていることがわかる。日常の生活では、この「頭打ち」が新たな経験の阻害になるケースが非常に多い。例えば、道端にコスモスが生えていたとする。初めて見る子供などは、名前も知らないその花を、視覚・嗅覚・触覚など全神経を使って観察するだろう。しかし、図鑑などで似たようなコスモスを見ていたことがあり、名前も知っている人がそのコスモスを見た場合、「これはコスモスだ」ということで、そのコスモスの花びら・茎・葉などをしっかり見たり触れたりすることなく、そのコスモスを経験することはない。

自我には大事な役目がある。それは、日常の経験を記憶し整理し、状況に応じて再び取り出す機能である。しかし、その役目が正しく機能することはめったにない。なぜなら、そのときの気分や感情、状況によって、同じ経験でもまったく違って記憶されるケースがほとんどであるからだ。また、ほとんどの場合、その記憶の仕方も包括的ではなく、断片的・局所的になってしまう。例えば、初めて会う人が自分の嫌いな振る舞いをした場合など、その人がどういう人かまったくわからないにも関わらず、「嫌な人かも」という記憶の仕方になる。

新しい経験の上で、自我より誤った記憶を引き出して、それを経験よりも優先して採用する場合、新しい経験は経験とはならず、何ら新しいものを得られないまま、過去の自我の記憶を強めてしまう。子供の頃より情報過多に陥っている現代人は、早い段階で新しい経験から遠ざかる人々が増えている。新しい経験から遠ざかれば、非常に凝り固まった自我による制限により、様々な弊害が出てくるだろう。ひとつは、物事に対して否定的になるだろう。経験よりも自我の情報を優先するということは、物事に対する決め付けが常に行われる。それに当てはまらない経験に対しては否定的になる。もうひとつには、近視眼的になる。断片的な物事から全体像を作る場合、その断片が強調されるため、本当のその物事とはかけ離れた全体像を見ることになり、それはあらゆる場面で多くの誤解を生じかねない。例えば最近の例では、中国で行われた反日デモだけを見て、「中国人は野蛮だ」と考えたりすることなど。

■まとめ

このように考察していくと、全人類にとって、あらゆる物事に対して100%正しい判断をする自我を持った人は存在しないことがわかる。中でも優れていると言われる人たちはこのことを十分に理解しており、自分の現在の自我よりも新しい経験を常に最優先にして、適切にその経験の記憶を自我に留めているだけである。新しい経験を最優先にするだけで、自我はその機能性のみを表し、的確に活動してくれるようになるだろう。反対に自我(気分・感情的なものや怒り・欲望・迷いを含む)を優先して活動する人間は、新しい経験が行われず、あるところの頭打ちな形で活動することになるだろう。それでも社会生活は可能であるが、仏教でいうところの六道輪廻(地獄、餓鬼、畜生、人、天、修羅)を繰り返すことになるだろう。

ある新しい経験を前にして、これまでの自分の持っている情報と違うのならば、自分の自我の情報を疑って直す、ということが日常的に行われるように活動するのが、人間の本来的な素質である、と考える。また、他人の経験談やメディアなどの伝聞(自分が経験していないこと)は、たかだか数人で行われる伝言ゲームが、最後まで正しく伝わらないことからみても、正確な情報とは言いがたく、もしその真相が知りたければ、同じように自分でやってみる、もしくは直接本人に聞いてみる、などの行動が自我の健全な形成を促すと考えられる。

以上より、表題の「自我は100%正しい結果を出すことは無い。」ということが言える。

新カテゴリ「思索」作成

2010年10月25日 | 思索
しばらく更新空いておりました。
その間、いつもながら深い思索に入り込んでいました。

ご存知の方も多いと思いますが、私はこれまでの人生のほとんどをある種の憂鬱と過ごしてきたように思います。
生の不確かさや懐疑、破滅願望など、一時は抗うつ剤を使用していた時期もありました。
そうした中で、いろいろな心理学の本や自己啓発本、心の問題に関する本など、虫食い的に濫読してきましたが、一時的な慰めにはなったものの、具体的な解決には至りませんでした。

しかし、ここ数日の思索で、ひとつの決定的な解決の糸口が発見されました。
この新しいカテゴリ「思索」にて、その解決の展開、検証等を行っていきたいと思っています。
ときにクドイ内容になるかもしれませんが、まぁ読み物として気楽にお付き合いいただければ、と考えております。

阿部 卓馬