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阿波池田「禿頭」の酔っ払って候(元福寿司2代目)

ブログ開始9年目、75歳になった。家族、師、友にブログ通じ少しでも恩返しが出来れば幸いなり。

禅の公案修行と只管打座 2

2015年08月27日 23時33分32秒 | 仏法
1回目の見性体験は悟りの入り口だということが分かってきました。

禿頭は1回目(嬉しくて涙が止まらなかった経験があります)

以降その体験をしていないというより、なにがなんだか

分からなくて50年近くたってしまった。華厳経の十地品のなかに

(1)初歓喜地 (禿頭注:初めての体験で歓びが沸き上がるということ、禿頭の

体験と一致します) (見性、脱落、宗教体験が十地経の始まり)とあります。

故玉城康四郎先生(東大教授)の本に若い時に出会っていれば、

違った道を歩いていたのに!

以下玉城先生の本より



「悟りを開くという言葉はあまり適当ではありませんが、目が覚めた所から、宗教体験をしたところからこの十地は始まっています。。。原始仏教のブッダの悟りの光景からいうと、ダンマが私自身にあらわになって、一切の疑いが消滅した所からこの十地品ははじまるのです。

禿頭注:道元様の身心脱落



ダンマというのはまったく形を離れた純粋生命です。。。すなわち如来、あるいは如来の生命です。如来の生命は目にはみえないけれども、そのみえない生命が私自身にあらわになる。そのあらわになった時に、私自身は人間と言う地盤をこえて如来の家にうまれる。それが歓喜地です。つまりそういう目覚めの宗教体験を得て、うれしくて仕方がない、歓喜にあふれて仕方がない境地、それが歓喜地という事です。。。



世間をこえて如来の家に生まれるということは、自分自身のよりどころであるだけではなく、いっさい衆生のよりどころとなるということです。いいかえれば自利利他の根拠がここに確定したということです。そして菩薩はそれをよりどころとしてさまざまな願を起こして、仏道修行にいそしむのです。ですから目覚めと言う宗教体験が終りではなくて出発点であるというところに十地経のきわだった特長を見る事が出来ます。。。



つまり最初の歓喜地において、凡夫地を越えて如来の家に生まれた者が、再び人間の世界に帰って来て、そこから最も基本的な修業を始めていくのです。。」              



p。94-6悟りの風光-華厳入門 (玉置)

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今日も深酒!!!予約が少ないのも困ったもんだは・・・