県道小田原湯河原線を小田原方向へ進むと、石名坂バス停のバス折り返し場所がありますが、その脇の農道を上っていくと右は真鶴町岩を、左は小田原方向の相模湾を、正面は真鶴半島を見下ろす尾根道になります。
あるのは3つの石碑です。
裏を見ますと、真鶴町郷土を知る会により建立され、協力者も記されています。
右後ろには、「浅間大神 癸明治十六年 未六月一日」と書いてあります。先程の浅間大神社の石碑です。
「教導師 朝倉元吉 明治三十六年」と、先程の碑にあった浅間大神社の創始者が、刻まれています。
とても眺めのいい場所です。
同じく、監視陣地の記載です。
南に進んで行くと、右の道路脇に石碑が見えて来ます。
あるのは3つの石碑です。
浅間山平安の碑となってまして、この地は浅間山と呼ばれ、明治頃に朝倉元吉という人物が浅間大神社を開いて、岩村が合併して真鶴町になる昭和31年頃まで山の講が行われていたそうです。「浅間神社」と「山の講」といえば、富士山信仰かなと思います。
また太平洋戦争末期になると、米軍が相模湾から上陸してくるとの公算から本土決戦を覚悟していた軍部は、真鶴町岩の沢尻海岸に砲台を建設するとともに、真鶴半島や相模灘を見下ろせるこの地に監視陣地を作ったというように記載されています。
建立は、平成3年です。
裏を見ますと、真鶴町郷土を知る会により建立され、協力者も記されています。
協力者には、真鶴特攻隊青空会の記載もありますね。
右後ろには、「浅間大神 癸明治十六年 未六月一日」と書いてあります。先程の浅間大神社の石碑です。
「教導師 朝倉元吉 明治三十六年」と、先程の碑にあった浅間大神社の創始者が、刻まれています。
満足して帰ろうと南に進みますと、右側にまた案内板を見つけました。
とても眺めのいい場所です。
同じく、監視陣地の記載です。
先程より詳しく、米軍に硫黄島や沖縄が占領され、本土決戦が現実味を帯びた時に伊豆網代港に人間魚雷基地、真鶴港に水上特攻兵器爆装艇基地が設けられ、この地には監視陣地地下壕が設置されて陸海軍の防備隊が駐留したと記載されています。地下壕だったんですね。真鶴が特攻の基地だったとは知りませんでした。
平成21年に先程の石碑を設置された方と同じ方か設置されたようです。
当時の特攻隊員の思いに触れ、今の平和に感謝
を強めました。
こんなところに戦争遺構があったとは、新たな発見をしました。