空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

花の写真の贈りもの

2011-08-02 21:01:30 | 日記・エッセイ・コラム

 ブログを読んだ友人から、暑中見舞いの花の写真が送られてきた。

 百合の花が咲き競っているお花畑の写真。

 友人の友人が送ってくれたものを、母の入院やら何やらで落ち込んでいた私を慰めるために転送してくれた。

 ササユリやヤマユリのようなものから、花屋さんで見るような豪華なものまで、いろいろな百合の花が、なだらかな丘陵地の緑の中に咲いている。見渡す限りの百合のお花畑。どこにあるお花畑だろう。

 写真がすばらしかった。撮影した人の気持ち、私に写真を送ってくれた友人の気持ちが、百合の花の香りのように伝わってきた。

 見ているうちに、涙がにじんでくる。

 日ごろ花屋さんで見る百合の花は豪華絢爛すぎて、部屋に飾ろうとはあまり思わないのだが、緑の丘陵地に咲く百合の花は、一つ一つの花びらに仏さまが宿っているような、清らかさが感じられた。

 この世のあらゆるもの、あらゆるところ、大宇宙から露のしずくの中にも大日如来がおられると説く華厳経を思い出した。

 敬愛する文化人類学者、岩田慶冶さんの著書「道元の見た宇宙」の中に、フランスの社会学者、マルセル・モースという人が唱えた「贈与説」を紹介している箇所がある。

 モースは、贈りものを交換するという行為は、霊魂をやり取りする行為であって、贈りものは霊魂のレールにのって去来すると考えたそうだ。

 岩田慶治さんは、その説をさらに広げて、霊魂をけし粒のような微粒子と考えるのではなく、エーテルのようなものが瀰漫(びまん)する場所、空間と考えたほうがよいと言っている。

 「霊魂というのは眼に見えない場所であり、身体をこえてひろがった精神の空間、伸縮する空間なのである」

 「この空間の上を、海の波に運ばれるように、こちら側から向こう側に流れてゆき、今度は向こう側から寄せてくる波とともにこちら側に帰ってくる。贈りものとともに霊魂が去来すると考えるのは、単に物だけでなくて心をそえる、(中略)AとBに共通する場、つまり、精神の共同空間、あるいは柄をささえている地の存在をたしかめあうためなのである。私とあなたはたがいに同じいのちの場を共有している、同じ眼に見えない土壌の上に生きている、ということを『もの』の去来を通して確認するためなのである」

 こう解説した後、言霊といわれるものに言及している。

 霊=場所と考えれば、心を込めた贈りものや言葉が、相手の心に届き、人を動かす力となることがよく理解できる。

 この場所が常に、「私とあなたはたがいに同じいのちの場を共有している、同じ眼に見えない土壌の上に生きている、ということを、『もの』の去来を通して確認するため」であれば、人間は争ったり、憎みあったりしないだろう。

 そういう場を俗世間であるこの人間世界に実現するために、宗教というものがあるのではないだろうか。

 写真の贈りものに私が慰められたのは、写真に添えて、写真を撮った人、その写真を私に転送してくれた友人の霊魂が送られてきたからだ。

 「贈りもの、霊魂、場所」というキーワードは、いろいろな考えやイメージがごちゃごちゃと散らかりっぱなしだった私の頭の中を、ちゃんと整理してくれそうなので、もっと勉強して、いつの日にか、まとめたいと思っている。