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去年マリエンバートで

2016-11-02 12:03:56 | 日記
今回紹介する映画「去年マリエンバートで」はアラン・レネ監督が1961年に発表した人類の芸術的遺産と賛美されるほどの大傑作である。難解な映画だという批判的意見もあるが、それはこの作品を既存の映画の範疇に無理矢理落とし込もうとするからである。これは既成概念を破壊した記念すべきエポックメイキングな映像作品なのだ。そして1961年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞している。

この映画の独創性は言葉で説明しても余り意味はない。しかし映画を鑑賞すれば一目瞭然にそれを理解し感じることはできる。無論、全てが新しいわけではなく、カメラワークやライティングといった技術的側面では過去の映画からの影響は拭い得ない。特に登場人物へのスピード感のあるカメラの接近はヒッチコック作品を思わせるし、物語の構造には黒沢明の「羅生門」が潜んでいる。事実、脚本を書いたアラン・ロブグリエは映画「羅生門」に触発されたと述べており、そこはなるほどと納得できる。この黒澤作品はタイトルこそ「羅生門」と名打ってはいるが、芥川龍之介の小説「羅生門」と「藪の中」を下敷きにして映像化した作品である。そしてどちらかと云えば「藪の中」が核になっている。私は「薮の中」の主題は人間の主観の不確実性だと解釈しているが、これは人間社会において誠実に認識すべき事柄である。私たち人間がかくも愚かしいのは、主観を正義だと信じて他者に押し付けたり、他者を攻撃したりすることだからだ。映画「羅生門」では、一つの事件に関して関係者の発言が各々微妙に食い違うわけだが、これがこの映画を実に興味深くし鑑賞者の心を捉えて放さない魅力になっている。鑑賞者は真相が何なのかを知るまでは映画に集中するしかない。ところが映画のラストには真相は謎のまま、物語世界の真相を包含する真理が提示される。従って真相は鑑賞者が独自に判断するしかない。しかし、そこで鑑賞者は真相よりも真理が大切であることに気付く。それは「去年マリエンバート」でも変わらない。只、「去年マリエンバート」では真理さえもが謎のまま鑑賞者に委ねられてしまうわけだが。

映画はモノクロ作品ではあるが、カラーに負けないくらいに深みのある映像で、全編に幻想的な雰囲気が漂う。と同時に、舞台となる城館や庭園といった背景には硬質な美や重厚な趣があり、主要登場人物である一人の女Aと二人の男XとMの存在感を際立たせている。しかもこの3人以外の人々が幽霊のように希薄なイメージで空間に配され、XとAとMの個性をくっきりと浮かび上がらせる。
物語には4つの視点が存在する。現在と登場人物三者三様のそれぞれの過去である。まず現在において、男Xが女Aに「去年、マリエンバートであなたにお会いした」と話しかけてくる。Xは自分の記憶を引き合いに出し、Xにとっての主観的事実をAに聞かせるのだが、Aの記憶にはそのような事実はない。だが、Xの話を聞かされるうちにAの記憶は徐々に変容していく。その過程と平行し、もう一人の主要登場人物、常に冷静で表情を変えない寡黙な男Mは真相を知っているかのような振る舞いを見せる。しかもこのMはAの夫らしき印象を持つ。そして物語が進行するにつれMの記憶こそが客観的事実に近いのではないかと鑑賞者は感じはじめる。

この映画は非常に凝った造りになっており、物語の4つの視点でヒロインAが4種類の衣装を身に纏い使い分けている。ただし、その4つの視点が切り貼り細工のようにバラバラに組み合わされている為、一見すると難解な印象を受けてしまうのだ。しかし、注意深く鑑賞すればどの視点かは判別可能である。だからこの映画は何回か繰り返し体験するのがお薦めと云える。私は最初に鑑賞した時、ストーリーの筋は霧に包まれたように曖昧模糊としたままだったが、それまで遭遇したこともない一種独特な映像世界を味わうことができて、それだけで大いに満足していた。ところがそこで完結するにはこれは実にもったいない作品なのである。私は幾度か鑑賞を重ねるうちに、4つの視点を明確に区別し、現在とXの過去とAの過去とMの過去を私なりに読み解いてみた。ではその結果を述べさせていただく。あくまでも私個人の解釈である。

去年、マリエンバートでXとAが出会った時、Aは夫Mと死別した未亡人である。XにとってAは魅力のある女性に映り、AにとってXは魅力のある男性に映る。そしてほんのひと時ではあってもXとAは恋愛関係にあったのだろう。一年後に再会を約したのは、Aの心には未だ夫Mが生きているからではないのか。それゆえ現在において、MはAの夫のように存在し、MとXは卓上でマッチ棒のような駒を使用した単純なゲームに興じるのだが、ひたすらMが勝ち続ける。ここで常にXがゲームに負けてしまうのは、相手のMが必勝法をマスターしているというよりも人知を超えた存在だからである。そう考えると、Aの夫Mと現在の空間である城館や庭園やそこに蠢く紳士淑女の群像は、Aが想像した大いなる幻影であることがわかってくる。亡き夫Mへの想いがあるからこそ、Aの過去にはXとの約束も忘却の彼方へと消えてしまっているのだ。XはAにそれをはっきりとは告げないが、Mの死は事実である。それこそが真相であり核心だと云える。要は死んだM本人の記憶がXやAの記憶よりも客観的で正しいわけだ。物語の終盤にAが絶望を込めたような悲鳴を発する象徴的なシーンがある。彼女はここで夫Mの死を認める。それからXとの約束を思い出し、AとXは城館と庭園を後にする。二人の後ろ姿は未来に向かって歩き出すボジティブな姿勢である。Mは達観した表情でそれを静かに見送っている。

以上が私の解釈である。アラン・レネ監督は、「去年マリエンバートで」の前作「二十四時間の情事」で初めて長編映画に挑戦したわけだが、この長編2作目にして大きく飛躍したと云える。レネ監督が世界的に注目を浴びたのは、短編ドキュメンタリー映画「夜と霧」においてである。これは第二次世界大戦中のアウシュビッツのユダヤ人強制収容所でのホロコーストを告発した衝撃的内容であった。しかもこういう題材をとりあげるのは「夜と霧」が最初ではなく、それ以前にも母国フランスの植民地政策を批判した「彫刻もまた死す」を制作している。また「二十四時間の情事」も家族を広島の原爆で亡くした日本人男性とナチス・ドイツ占領下のパリでドイツ人将校の愛人だったことから糾弾や迫害を受けたフランス人女性との物語である。かつてヌーヴェルバーグの旗手でもあったこの監督はフランス映画界において尊敬に値する良心的知識人なのだ。そして重い主題を選びながらも、映像化に際しては安易な批判に陥ることなく内省的に主題を掘り下げている。「去年マリエンバートで」には戦争の影は感じられない。只、私の個人的感想で恐縮だが、この映画のヒロインAには、小津安二郎監督作品「東京物語」で原節子が演じた戦争未亡人の紀子と微妙にイメージが重なる瞬間がある。それは彼女の亡き夫である息子のことをもう忘れて幸せになりなさいという義父母の心からの言葉に躊躇い逡巡する時だ。「東京物語」のラストでは、列車の中の紀子が義父から贈られた義母の形見である時計を見つめている。列車は東京を目指し紀子を乗せて彼女の人生の未来ヘ進む。そして時計の針もまた未来を現在に引き寄せながら時を刻んでいく。

「去年マリエンバートで」は、去年という過去にあった事実を巡って、一人の女と二人の男が現在の糸を紡ぐ。アラン・レネ監督はこの作品では政治的メッセージを何も語っていないようだが、あえてメッセージを見出すとすれば、それは過去に捉われつつ現在を生きている人々が過去に捉われず率直に未来を志向する姿勢を肯定することではないだろうか。


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