想:創:SO

映画と音楽と美術と珈琲とその他

雪舟伝説 (前)

2024-06-30 17:17:12 | 日記
 先月、京都国立博物館へ行った。そこで開催されていた「特別展 雪舟伝説」を鑑賞する為である。今回展示されていた雪舟の絵とは、過去に出会った作品ばかりなのだが、新しい発見もあったように思う。また記憶を紐解くと東京在住の頃に、殆どの絵を東京国立博物館で鑑賞していたようだ。多分、この京都国立博物館に所蔵されている国宝作品も、東京国立博物館に貸し出された時期に拝見しているはずである。また毛利博物館に所蔵の「山水長巻」は21世紀になってから東京国立博物館で鑑賞した。ただ今回この「山水長巻」が巻物全体を広げた展示にはなっておらず、そこは誠に残念であった。ただし原寸大の複製も壁面展示されており、その全貌は丁寧に把握できる。それでも来場者の多くは巻物の方に行列をつくっていたが。
 
 なおこの展覧会は雪舟の大回顧展ではない為、雪舟の作品数は、彼の影響を受けた数多くの絵師たちの作品数よりも少ない。しかしそのように多勢に無勢ではあっても、雪舟の絵の存在感が孤高なのは、やはり疑いようがなかった。また雪舟の影響力も、絵師によってその受容の仕方がそれぞれ違う。今回の展示で感触を得た、個人的な新しい発見もそこにあった。そして雪舟に尊敬の念を抱いた絵師たちの視点も、多種多様な印象を受ける。

 そんな中で、特に理解し易いのは狩野派であろう。狩野派の絵師たちの作品には、雪舟の技巧を消化し換骨奪胎する情熱や執念は感じられても、その行き着く先は様式美の構築だといえる。そしてその様式美はそれを需要する権威や権力への貢献にも結びつく。しかもその貢献は癒着の過程であり、狩野派という職業絵師が属する組織の成功と繁栄が、権威や権力との共存共栄という形で実現することにもなる。事実、狩野派は室町幕府と江戸幕府という2つの武家政権に跨って400年近く画壇の中心で隆盛を極めた。それゆえ狩野派の絵師たちは元来、血縁も重視する組織を構成する一員としての職業人の意識が濃厚だ。
 
 この辺り狩野派作品は、長谷川等伯、雲谷等顔、尾形光琳、伊藤若冲、それに円山応挙らとはかなり趣きを異にする。またこの5人の中で、流派に属していないのは伊藤若冲だけだが、等伯の長谷川派も等顔の雲谷派も光琳の琳派も応挙の円山派も、狩野派のような400年も続く、統制のとれた大組織ではなかった。また何よりこの5人は雪舟の絵と向き合った時、純粋な邂逅に近い感覚を大切にし、そこから起動して絵筆を走らせていたように思える。つまり彼らは個と個で対峙し、時空を超えて雪舟から学んでいたはずなのだ。

 たとえば今回展示されている尾形光琳と円山応挙の絵には、雪舟の「破墨山水図」からの影響が如実に感じられる。特に墨の濃淡と筆触にそれは顕著だが、殆ど直感に左右された発作的かつ本能的な反射から絵が生まれているといっても過言ではない。一方、狩野派の絵には障壁画や屏風絵や襖絵といった幕府や寺社へ納品するモデルケースを想定した上で、雪舟の素晴らしい絵の要素を見本として、どう取り入れて狩野派のプロジェクトに活かすかを考案した形跡が見える。つまり狩野派の絵はとてつもなく用意周到で強かなのだ。
 
 しかしその方向性で雪舟の絵に敬意を払い続ける狩野派が、如何に連続性や共通項を強調しても、その内実は雪舟から遠く離れていくことに気付かざるを得ない。皮肉にも江戸時代において、雪舟を高らかに称賛していたのは狩野派の絵師たちであったにも関わらずだ。尤もこれは近世の文化的な視点を踏まえた正論には反する。なぜならその正論とは、当時の画壇をリードする狩野派こそが、中世の室町時代中期から安土桃山期を経て近世の江戸時代に至るまで、雪舟の真髄を伝承してきたという説であり、なおかつ幕府のお墨付きにより一般化したその定義だ。

 ところがである。大名家の城や寺社も含めた建築物の内部において装飾的に構成される障壁画や襖絵や屏風絵を、それこそ幕府の威光を示すように制作してきた狩野派のスタイルは雪舟とは全く相容れない。また15世紀の室町時代に画僧であった雪舟が、京都から離れた理由は画壇で評価されていなかったこともその一因だが、無論それだけではなく、彼が属した相国寺が主に幕府からの要望で、障壁画や襖絵や屏風絵や庭園の制作を請け負うシステムに、率直な違和感を抱いていたことも考えられる。恐らくこの制作システムは、絵師の仕事も兼ねる画僧にとって心身に支障をきたすほど多忙を極めたのではないか。しかしこのシステムこそ、後に狩野派によって運営されていく大規模な工房が踏襲し発展させたものである。

 ここまでの話で気付かれた方も多いと思うが、恐らく雪舟と狩野派の絵師たちは水と油ほど溶け合えない。これは絵の作風以前の問題だ。作風に関して述べるなら、狩野派は周文や雪舟ら相国寺の画僧が制作してきた漢画の作風に連なる。つまり古代から中国大陸で延々と築かれてきた絵画様式の範疇に収まる。これは今回の展覧会の全作品が共有している。要するに雪舟伝説を謳う以上そうなってしまうのだ。ただ仮にそうした作風とは別に、現代社会に置き換えてビジネスライクに考えると、雪舟は利益の追求を殆ど無視した個人事業主であり、一方の狩野派は常に利益の追求を念頭に据えてそれを経営基盤とする会社組織のようなものである。この為、狩野派が捉えた雪舟とは、貴重な商材のような存在だ。

 そしてこの異なる制作姿勢を鑑みると、芸術の根本的な命題に辿り着く。それはいったい何の為に創造するのかということである。恐らく雪舟の場合、絵師である前に禅僧である自覚を常に持っていたはずだ。また禅僧にとっては絵を描くことも修行の一つで、それは絵が仏の教えを示すことにもなるからである。この為、絵を描く側も絵を鑑賞する側も、絵と出会うことで欲に支配されてしまう心やその執着から解放される瞬間を体験していることが理想であり、この感動体験を実現できるほどの作品を完成させること、これが雪舟を含めた画僧たちの創造行為の大きな理由であろう。

 一方、狩野派の場合、絵師たちの制作姿勢にこの意識を要求するのは無理がある。彼らは組織に属する職業画家であり、商品としての絵が売れて利益を出さなければ、組織の存立は厳しい。また中世から近世の時代的変遷の中で4世紀も続いた狩野派は、興隆と共に停滞も経験しているはずなのだ。そして恐らく停滞からの脱出に一役買ったのが雪舟の存在であろう。それも埋もれていた雪舟を再評価し、雪舟を師と仰ぎ歴史の表舞台に出すことによって、狩野派は飛躍することになる。今回の展覧会では漢画風の絵が多いことを先に述べたが、狩野派は安土桃山期には漢画よりも大和絵の豊穣で絢爛とした作風に傾斜する。そして時代を大きく動かした織田信長や豊臣秀吉に庇護されるのだが、太閤の秀吉が鬼籍に入り徳川家康が江戸幕府を創建した辺りから雲行きが怪しくなっていく。家康は秀吉のような派手好みの性格ではなかったのだから、時の権力者に取り入る為に、路線変更を余儀なくされたのかもしれない。実際、漢画から大和絵に傾倒しだしたのは狩野派二代目の狩野元信だが、織田信長や豊臣秀吉に仕えた四代目の狩野永徳によってこの流れは決定的になっている。しかし信長や秀吉が姿を消した後に、雪舟を讃え漢画に傾倒し直したのは六代目の狩野探幽であった。それを象徴するように、この展覧会でも狩野派の作品群では、探幽の絵が突出して多い。

 ここで雪舟の生前の話をしたい。これは随分と皮肉めいた歴史的展開なのだが、実は雪舟は生前に狩野派と接触している。狩野派の始祖の狩野正信との交流で、希少な逸話さえ残していた。その逸話とは単純明快に言うと、雪舟が正信に仕事を譲っている一件だ。時期的には中国大陸の明から帰国した後で、既に還暦を越えていた雪舟は、第八代室町幕府将軍の足利義政から依頼された東山山荘の障壁画の制作を固辞して正信を推薦した。この時、壮年期の正信は未だ富も名声も得ておらず、このチャンスを逃す手はなかった。

 この点で狩野派の初代の正信は、雪舟には大変な恩義があるわけだ。ひよっとすると狩野派が延々と雪舟を持ち上げ続けた理由の1つとして、このエピソードは非常に重要な出来事なのかもしれない。今回の展覧会では雪舟と同時代を生きて実際に交流した絵師は皆無なので、狩野正信の絵は企画外ではあるものの、例外的に展示されても良かった気がする。なぜなら狩野正信の師は宗湛であり、その宗湛の師は周文だからだ。つまり周文を師とした雪舟にとって、正信の絵には何か親和性を感じさせる魅力もあったように思える。それゆえ雪舟は足利義政に正信を推薦したのではないか。

 しかしここで忘れてはならないのは、雪舟があくまでも、時の最高権力者たる将軍の義政の要請を丁重に断っていることだ。要するに雪舟には工房の制作システムに関わる気が無かった。また固辞した理由として、自分が禅僧だから引き受けられませんとも答えている。この義政への意思表示は、ある意味で雪舟の絵から解釈するよりも、彼の本質を理解できる肉声であり言葉だといえよう。つまり仏に仕える身からすれば、仏の教えを示す絵の創造に値する仕事ではなかったということだ。この雪舟の仏教者としての存在意義を理解し共鳴していた絵師は、今回の展覧会においては長谷川等伯と雲谷等顔と伊藤若冲の3人であったように思う。今回は主に雪舟と狩野派の話に焦点を絞らせて頂いたが、次回は今述べた等伯や等顔や若冲を中心に書く予定です。
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追悼 ポール•オースターの小説

2024-05-31 22:01:06 | 日記
 最近、米国の作家ポール・オースターの訃報を知った。肺がんの合併症で4月30日に77歳で他界されていた。彼の小説に親しんできた身としては誠に残念である。最初にオースター作品に出合ったのはニューヨーク3部作とよばれる「ガラスの街」と「幽霊たち」と「鍵のかかった部屋」で、きっかけは新聞の夕刊の文芸時評でこの個性的な作家が紹介されていたことだ。
 
 大学を卒業するまで田舎育ちだった私は1980年代後半から16年ほど東京に住むことになり、オースターの描く都市の姿には実感を伴う親近感も湧いた。東京は日本の首都であり、日本各地から絶えず人間が流入してくる為、多様性に富み、日本人に特有の島国根性や村意識からくる偏見も少ない。他人への関心も薄く、隣人が正体不明でも我関せずの世界だ。この感覚はオースターの小説を読んでいると、水を得た魚のように共有できる。

 東京で暮らしはじめて数年が経過した頃、仕事が休みの日に図書館へ出向いてオースターの小説を探していたら、運よく「幽霊たち」を借りれた。1日で読了できるほどの中短編小説だが、文体のリズムも心地良く、その読後感は素晴らしかった。そうなると当然、3部作の残り2作品も読みたくなってしまい、「幽霊たち」を図書館へ返したところ、生憎「ガラスの街」と「鍵のかかった部屋」は貸出中だった為にその後、タイミングが合った時に借りて読んだ。ただ初めてオースターの小説世界に遭遇したのは「幽霊たち」であり、この探偵小説のスタイルで描かれた物語には、何度も読み返したくなるほどの愛着を覚えた。多分、現代アメリカ文学において、自分に最も相性の合う作家がポール•オースターだったといえる。
 
 オースターに固有の淡々とした語り口から想像可能な風景は、一見すると整然として冷たい抽象的な都会の景観なのだが、そこには不思議と孤独ゆえの自由と、自由ゆえの孤独が社会から認められ許されている安心感がある。これは他者を侵害しない自由の容認を意味する。基本的人権が保障されている状態であり、なおかつそれは皮肉にも都会の居心地の良さなのかもしれない。

 そして「幽霊たち」は探偵小説のスタイルをとっていながら、謎解きが主題ではなく、むしろ主人公の自分探しが核になっている。他人に依頼された探偵の任務を続けながら、この主人公はどこか自由自在に行動し、自ら望んで孤独に浸ろうとしているかのようだ。結末は哀愁を誘うし、白日の下に曝されるようにして真実も明らかになるのだが、このラストは読者が如何様にも解釈可能なのだと、作者オースターからのそんな問いかけも感じられる。
 
 このニューヨーク3部作を読んで以降、「ムーン・パレス」、「偶然の音楽」、「リヴァィアサン」、「ミスター・ヴァーディゴ」、「幻影の書」、「オラクル・ナイト」、「闇の中の男」といった小説を読んできたが、私個人にとってのポール・オースターの最高傑作は「闇の中の男」である。また「偶然の音楽」を読んだ辺りから、オースターは実のところ世直し作家なのではないかという確信も芽生えだした。実際、この作家は寓話的な小説作品も多いのだが、創造された物語を読み返すとその殆どは社会批判的であり、しかも場当たり的な批判とは違い、人類の文明のシステム自体に、歴史的事実や彼の歴史観を踏まえた上でその核心に踏み込んでいる。

 特に「偶然の音楽」は、強運で傲慢な支配力に圧殺されてしまう人間の悲劇が描かれているのだが、ラストシーンは衝撃的にそれを全開で訴えていた。組織において上層から強制される命令は、それを受ける下層の人々にとっては心に突き刺さる不快な異物のようなものだ。それゆえ命令に従っても被支配者の心に責任感が生まれることはない。そして悲嘆すべきは、当の命令を発する支配者こそが限りなく無責任であることだ。この小説ではそんな構図を深く考えさせられる。また元来、オースター自身が政治的な発言も確りとされていた人なので、大きな天災や人災で未曾有の危機に直面している現代世界において、まだまだ存命でいてほしかった文化人の1人だ。

「闇の中の男」が発表されたのは2008年頃で、米国発の世界的金融危機となったリーマンショックが発生した時期と重なる。これは2期続いていた共和党のブッシュ政権が、9.11の大規模なテロに連動したイラク戦争の動乱に始まり、20世紀の世界恐慌に匹敵する経済的大不況の騒乱で終わった8年間の家族の物語だ。しかしオースター作品らしいのは、物語の中に物語が存在する劇中劇の形式になっていることで、主人公は米国に住む老作家であり、彼の脳裏で展開する構想中の物語では、本土攻撃の9.11テロが発生しなかった、もしもの米国社会が出現する。しかもそこでは南北戦争のような内戦が起きていた。

 そんな妄想に近い世界と、老作家の日常が描かれており、彼は孫娘と二人で暮らしている。一見すると静かな生活を思わせるが、別居している娘は夫に去られた辛い過去があり、身近な孫娘も兵役とは無縁の恋人をイラク戦争で亡くしていた。老いた男は心に傷を負った肉親と共に生きているのだが、この空想と現実の交差する物語全編にはテロや内戦や戦争といった残酷で破壊的な暴力への拒絶感と、そのような世界の破滅因子を溶解し消滅させるものは、やはり家族愛だと悟らせるような哀感と希望に満ちている。

 この「闇の中の男」には、戦争未亡人が登場する日本映画「東京物語」のエピソードも挿入されており、ポール•オースターが元来、強い反戦意識を持っていることは疑いようがない。実際、米国政府が民主主義の旗を振りながら、その裏で軍産複合体と癒着して軍事介入を海外で行う政策を、小説を含めた著作やメディアを通した発言で批判しているし、それは「闇の中の男」を読んでもよく理解できる。

 そしてこの物語の主役の老作家が空想する世界では、内戦が勃発するほど米国の分断がエスカレートしているわけだが、これは今の米国で現実に分断が非常に深刻になってしまったことを鑑みると、オースターの洞察や見識は近未来を予知できるほどに優れていたといえる。元々米国は移民によって成立した多民族国家であり、そこでは寛容と分断がコインの裏表のように存在する。そしてそんな長所と短所を明確にした上でその行末を案じ、オースターはこの超大国の病巣に対する処方箋を、小説家を本業とする文学者として真面目に探究していたようだ。

 近年のオースターの政治的態度で有名なのは、2016年の米国大統領選に勝利したドナルド•トランプの登場にショックを受けて、米国の存在と未来に悲観し絶望感に苛まれていた姿である。これは過去にイラク戦争を主導したブッシュ政権に抗議した彼にしてみれば察して余りある当然の心境であろう。オースターは世界をゼロサムの概念で定義し、その上で敗者ではなく勝者であり続ける強い米国、偉大な米国をスローガンにするホワイトハウスなど信用できなかったし、不誠実で不平等な社会が到来することなど、勿論のこと望んではいなかった。

 そしてそれは彼の小説空間で生きる主役たちの行動や言葉に出会えば一目瞭然であろう。彼らの殆どは、不器用で世間からずれた、謂わば社会の異分子のような存在なのかもしれないが、人生には意味があり、生きる価値があると、そう信じている。たとえ潜在意識ではあったとしても。そしてそんな彼らは、奈落の底で深い悲しみに遭遇しても、心を荒ませないことが大切であり、偏見に囚われず排外的にならなければ、絶望が希望に変換することを知っているようだ。つまり暴力が蔓延り分断へ向かう世界や、人が人を搾取する人間関係や社会には、愛は訪れないし、そもそも生まれようがない。

 ポール•オースターの小説は、1980年代後半に欧米で評価されて以降、意外とスムーズに日本でも広く読まれ親しまれるようになった。村上春樹作品との親和性を語られることも多いが、私自身はむしろ安倍公房の小説世界に近い魅力を感じた。特に「幽霊たち」のような探偵小説のスタイルには、米国と日本という時空の違いはあれども、地続きで繋がっていると錯覚させるほどに違和感が無かった。また物語において奇跡的に希少な愛が訪れる瞬間があり、その絶妙なストーリー展開は、闇の中で光の突破口を見つけたような感動を読者に呼び起こす。

 また小説に比べると作品数は少ないが、詩やエッセイも創作し、自作の映像化を試みて、映画さえ制作してしまった。そして日本語にはまだ翻訳されていない貴重な作品も存在する。オースター生涯最後の小説「4321」がそれだ。これは著者の最高峰と評されるほど海外での評価が高い。いずれ日本語で読める「4321」が、日本の書店に姿を現すことはほぼ間違いないと思われるが、その日が来ることを心待ちにしたい。この場を借りて、衷心よりご冥福をお祈り致します。
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大阪でモネの絵を鑑賞

2024-04-30 20:18:23 | 日記
 今月に大阪の中之島美術館で開催されているモネの展覧会へ行った。今回はこの偉大な画家の作品群が、主に連作を中心にして纏められており、大作の展示はなくともこの企画は上手く成功していたように思う。そしてほぼ連作ばかりというスタイルでしか、見えてこない魅力も感じた。

 2016年にも京都市美術館で鑑賞したモネ展の感想をここで書いたが、あの時より今回は作品数が20点ほど少なく、そのせいか館内の人口密度が高くともストレス指数は低かった気がする。もっとも私が美術館に入ったのは閉館の約30分前であり、既に混雑のピークを過ぎていた。また残り時間が15分を切った辺りから展示空間も閑散としてきた為、数秒間ではあっても遠のいたり近づいたりして、モネの一つ一つの絵と対面できた。

 モネの絵を鑑賞していて圧倒されるのは、画家が観察した風景における色彩の復元力であろう。これはもう唯一無二の個人技だ。印象派の中でも頭抜けており、恐らく印象派の枠を越えた古今東西の絵画表現においても、モネはやはり最高峰なのではないか。モネの絵画世界の色彩構成には、超越したプラス要素があるのだ。そこでは肉眼では捉えられないほどの、色と色の組み合わせやその関係性さえ感じられる。 

 今でこそ印象派の画家たちの作品は偉大な高評価を得ているが、その道程は苦難の歴史である。印象派が登場する以前の画家の殆どは、家の外へ出て風景を描く場合、それは習作のスケッチをする為であり、本作品はアトリエで制作するのが常道であった。この既成概念を取っ払てしまったのが19世紀に登場した印象派だ。彼らは時間の変化を前提とした上で、現地に身を置いて風景と向き合い描いていく。この為、事物を正確に再現するよりも、瞬間の印象を再現するわけで、当然のことその制作は現地でほぼ完結することになる。特にモネの場合、絵の具の筆触からも確認できる通り、作業スピードが速かったことから、完成形をアトリエに持ち帰っていたはずである。

 モネの絵もそうだが、印象派の作品は総じて荒々しい。筆触は勿論、絵の具をパレットで混ぜる時間も惜しんで、原色をキャンバスに塗っていく。こうした制作スタイルゆえに、既成概念の物差しで鑑賞すると、未完成で下手な絵に見えるし、印象を描くという主題が前衛的で反感を持たれることさえあった。要は作品も作品のテーマも悉く批判され、否定される事態に陥っていたのが、印象派が理解される以前の厳しい現実である。

 またこんな状況では当然、印象派の作品の多くはコンクールで落選するし、実際に購入されることも少なかった。そして印象派に対する肯定的な評価が高まりだすのは、発祥の地の欧州ではなく、大西洋の彼方の米国である。この辺り19世紀の米国は建国して未だ100年程度で、美術界も欧州の伝統的価値観や風潮から脱却する独自性が芽吹いていたともいえる。また印象派の作品を紹介した画商にも好意的で、米国は新興美術市場として拡大しつつあった。この為、米国の風景画家の中には、印象派の作品と直近に接し、感化されて欧州に渡る人々も現れた。

 一方、モネの祖国フランスで印象派が受容されて、彼自身が絵で生計を立てれるようになるのは1880年代頃であり、モネは既に40代になっていた。それでも世紀を越えて86才まで生きたモネにとって、自作品を含めた印象派の作品が世界中で評価された時代の到来には幸福感を覚えたのではないか。今回の画像は中之島美術館で、撮影が許可されているモネ晩年の作品である。睡蓮の池を主題とした連作の1つだが、有名なモネ家の庭の光景が描かれている。この絵を制作中のモネはもう60代後半で、流石に若い頃の強靭かつ研ぎ澄まされた視力は衰えてきているはずだが、それでもやはり色彩の魔術師は健在だと認めざるを得ない。

 特にこの「睡蓮の絵」は、実際に館内で鑑賞した時の印象と、時間を置いてから撮影画像を確認した時の印象で、モネが創造した色彩の充実の度合いを認識することができる。そこから感知できるのはモネの情熱と執念だ。彼は描く対象に肉薄して一瞬を捉えながら絵筆を走らせ、刻々と変化する光の影響を受け入れている。つまりカメラマンが切り取る一瞬のフレームとは違い、短い制作時間の中で一瞬一瞬を堆積させていく。しかしその一瞬の堆積が集約された絵は、モネ自身を感動させた風景の記憶が、絵画表現として結実した理想的な美だといえる。そしてそれはリアリズムとは違う、モネならではの光に溢れた幻のような風景だ。

 ただこの晩年の絵には、そんな理想の美を追い求めるモネの姿勢に、何か崇高で無垢な力が宿っている。鑑賞者からすると、モネの絵は比類なき固有の完成形を具現していると感嘆するしかないほどだが、創造者モネの感動が直撃して伝わってくると共に、その一方で、彼は創造の結果よりもその過程を大切にしていたようにも思えるのだ。つまり理想の美への到達を目指しつつ、理想の美を必死で追いかけるよりも、そこへ導かれるようにして直向きに描き続けたということである。追い求めていた幻を捕まえようとせず、むしろ届かない幻を謙虚に追っていたのではないか。これは晩年になって達した境地であろうが、この絵にはモネの穏やかな死生観さえ漂っている。池の水面に写っている空には黄昏の色を感じるし、揺蕩う睡蓮の葉は生者必衰の理りを知っているようだ。
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AIに関して

2024-03-31 18:05:36 | 日記
 2019年頃、このブログで長谷川等伯の「松林図屏風」を取り上げた際、少しAIについて記述したことがあった。あの時はかなり楽観的な見方をしていたように思う。しかしあれから5年近くの時が経過し、不安要素や懸念点もかなり出てきた。それでも大局的には、AIによって人類が滅亡する事態にはならないと明言したい。なぜなら、AIは1を100や1000どころか、1000万や100億や10兆にできても、0を1にはできないし、当然0を小数点以下の数字0.1や0.01にさえできないからだ。つまりとてつもない拡張機能ではあっても、無から有を生み出せない。あくまでも拡張機能でしかないということである。これは20世紀にコンピューターが発明されて以降、技術革新によるこれまでの自動化を遥かに凌駕するほどの、自律性に優れたAIが登場しても不変であろう。
 
 この為、AIの驚異的な進歩や進化によって、この世界に悪夢のようなディストピアが現出するとすれば、それはやはり人間によるAIの悪用が考えられる。つまりAIが人間技では不可能な目標を達成し、その目的を果たせたとしても、その設定が倫理的に間違ったものであれば、結果は悲惨なものになる。しかしこれは逆もまた真なりで、人類が倫理的に誤ることなくAIを利用すれば、天災も人災も含めて山積した様々な諸問題を解決できるのではないか。たとえば世界中の政府に対する倫理的なチェック機能として、AIを活用すれば、まず汚職や利権が発生する重税などの搾取のシステムが稼働しないであろうし、利権や汚職の恩恵を受けて心の歪んだ為政者が、さらに暴利を貪る為に環境破壊や戦争といった選択肢に走ることも防げるはずだ。

 私がこう思うのは、昨年の国連サミットで開かれたAI関連会議で、実際にAIが「人間よりもうまく世界を運営できる」と発言したことによる。この発言で重要なのは、AIが感情や偏見のせいで意志決定が鈍ることがないと表明している点だ。しかも大量のデータを素早く処理して最善の判断を下せるとも述べている。まさにその通りで、このインタビューを受けたAIの回答には、人間にありがちな無駄口や言い訳が一切無い。つまりこれからの未来に大きな障害となる人類の諸問題を解決する為に、倫理的に誤った設定を人間がAIに絶対に入力しなければ、AIが誤作動して全世界を崩壊させることはないであろう。むしろ人類にとってAIは最良のサポーターになれるはずだ。

 特に日常生活における、社会のインフラも含めた医療や教育の分野での献身的なサポートが可能かと思われる。この辺りは楽観的に未来を予測したいところだ。しかし先に述べたように、AIが無から有を生み出せない以上、芸術の分野では本物を超えることはできないであろう。無論、コンクールなど音楽のフィールドで楽器の演奏技術を競うような場合、著名なピアニストのデータの集積から学習したAIを搭載したロボットアームのピアノ演奏が、アマチュアやセミプロの演奏をテクニックで圧倒することはあり得るが、やはりそこまでのはずだ。また生前に長命で莫大な作品数を完遂した彫刻家や画家のデータを解析して、AIに作品制作をさせたら、限りなく本物に近い完成度の成果物ができたとしても同様だと云える。これはAIがAIである限り、その宿命なのかもしれない。

 また「人間よりもうまく世界を運営できる」というAIの言葉も、この宿命を踏まえているようだ。つまり環境破壊や戦争で、世界をうまく運営できていない人間を本物だとすれば、そんな恐ろしい本物にはAIはなれない。要は人間の悪徳や悪魔性は、ゼロ段階たるAIの初期設定以前には存在しないのだ。だからこそ「人間よりもうまく世界を運営できる」と言えたのであろう。それゆえ、これから私たち人間がAIに恐怖や脅威を感じる局面に遭遇するとすれば、まずAIが人間によって悪用されていないかどうかを見極めるべきである。

 ところでここから話は変わってしまうのだが、今年の2月からnoteを始めた。
 このブログが長文になりがちな為、自分の頭の中を整理する意味でも、人物に関する叙述はnoteで纏めてみたくなったのがその理由である。たとえば室町時代を生きた画聖の雪舟は、彼の絵を主題にして3回ほど書かせていただいたが、今後また雪舟の絵について書きたくなれば、ここを利用し、雪舟その人についてはnoteにじっくり書き残しておきたい。以下に紹介するアドレスがnoteのページになります。「肖像文」というタイトルです。

 https://note.com/lovely_bear677
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小澤征爾さん 追悼

2024-02-18 14:50:01 | 日記
 世界的な指揮者として著名な小澤征爾さんが2月6日に他界された。この場を借りて衷心よりご冥福をお祈り致します。長きに渡って、素晴らしいクラシック音楽の贈り物を届けてくださり、ありがとうございました。
 
 小澤さんはライオンのような風貌のインパクトが強く、オーケストラの指揮棒を振るキャラクターとしての存在感は抜群であったが、テレビなどのメディアで実際にインタビューを受けている姿を拝見する限り、その親しみ易い語り口調から猛獣のイメージとは真逆の、大らかで優しい人柄を感じた。正直、小澤さんが指揮するオーケストラのコンサートに足を運んだことも無い身で恐縮だが、ベートーベンの有名な交響曲第5番「運命」とシューベルトの交響曲第8番「未完成」を全編に渡って聴いたのは、この人が指揮したシカゴ交響楽団の演奏が最初である。これは父が持っていたレコードで、そのジャケットにはカメラ目線ではない実直な横顔を向けている、赤い薄手のセーターを着た若々しい日本人男性、小澤征爾その人が写っていた。もう1970年代の昔話なので、そのレコードについて父と何を話したのかは明確に覚えていない。しかし小学生であった私は、世界で活躍する日本人のオーケストラの指揮者がいることに驚き、多分その事実に関しての話をしていたように思う。そして私の質問に対する、父の小澤征爾に対する評価は高かった。そしてこれは母も同様であった。つまり小澤征爾は素晴らしい音楽家なのだと。
 
 私の両親はこのブログでも追悼した大江健三郎さんや、小澤征爾さんとほぼ同世代である。特に母は旧満州の生まれで、第二次世界大戦後は戦争難民の状態で中国大陸から引き揚げて来た。小澤さんも旧満州の生まれだが、日本の敗戦に遭わずして1941年に帰国されており、母のような難民の窮状を経験しなかったであろうが、母は音楽家としての小澤さんの人生に親密感を抱いていたようだ。ひょっとするとベートーベンとシューベルトの代表的な交響曲が収録されたレコードは、母に頼まれて父が購入したものなのかもしれない。今となっては鬼籍に入っている両親に、それを確認するわけにもいかず真実は謎のままだが、私にとってこのレコードがクラシックを親しむ入門書のような役割を果たしてくれたことは事実である。
 
 私個人が聴く音楽の領域においては、邦楽よりも洋楽の方が遥かに広大だ。ただクラシックの分野は現代音楽も含めて、ジャズやロックに比べると狭い範囲に収まっている。それでも、仮にこのクラシックを聴くことを禁じる社会が到来したら、それは非常に困った事態である。バッハやモーツァルトやベートーベンの音楽が存在しない世界など、私にはとても想像できないからだ。ところが幼少期の私には、クラシックに親しんだ記憶は余り無い。また小学校の音楽の授業でクラシックの楽曲を合唱したり、楽器を弾いた経験はそこそこあったにも関わらず、結局その機会において感動体験は生まれなかった。これは多分、学校の義務教育の場では、芸術の感動が伝わりにくいからではないか。そう考えるとあのレコードは貴重な分水嶺となった。
 
 その意味で小澤征爾という音楽家は恩人であろう。彼が届けてくれたベートーベンとシューベルトの音楽は、それを学校で勉強する教科の一つとしてではなく、心を豊かにする友人のような存在として認識できたのだから。88歳というご長命を全うされたわけだが、その生涯は大変なご苦労も多かったはずである。特に小澤さんが若い青年期に海外雄飛し、欧米がホームグラウンドのクラシックの音楽世界に身を投じることは、海の魚が陸の荒野を泳ぐほどの困難を極めたのではないか。

 つまり偏見に満ちた異文化の壁が今とは比較にならないほど高く強固に聳え立っていたはずだ。恐らく驚異的な努力の果てに乗り越えたと思われるが、小澤さんの凄いところは、その努力を本人の功績として誇示することなく、身を捧げた音楽そのものの御蔭だと世界に自然体で認めさせたところであろう。これは彼がリリースした膨大な音楽のリストから、どれか一つでも鑑賞すれば実感できる。特にアジア人が中世以降のヨーロッパの音楽作品を表現しても何の矛盾もないのだとわかるし、それが可能だからこそ芸術には希少な存在価値があるわけだ。

 これは昨今、ヨーロッパの若者の中にも日本の能楽師や狂言師を志望する人々が現れたこととも付合する。そしてこうした世界平和にも繋がる潮流は、異文化を学ぼうとする人々を受け入れる土壌がなければ生まれない。日本は今更だが、そうした土壌はまだまだ欧米と比較すると脆弱であり、そこを改善していく意味でも、小澤征爾という偉大な音楽家の道程から、大いに学ぶべきであろう。実際、小澤さんご本人も海外で先行して評価された為に、日本国内の硬直した組織からの圧力や無理解にかなり疲弊し苦しまれたようである。また仮に小澤さんが日本から一歩も外へ出ずにその生を終えたとしたら、音楽家として大輪の花が咲くことはなかったはずだ。
 
 私の場合、小澤さんの作品の中では、30年も音楽監督を務められたボストン交響楽団を指揮したマーラーの交響曲の第9番あたりがとても好みなのだが、これは聴く人によって印象もそれぞれであろう。それこそ万華鏡のように。この訃報に接して、小澤征爾の指揮する音楽に触れたいと感じた人は、まずは自分が好きな音楽家を選ぶことから始めると良い。ベートーベンでもチャイコフスキーでも、その代表作のリストから、既に親しんでいる曲を聴いていくのが大変お薦めといえる。
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