想:創:SO

映画と音楽と美術と珈琲とその他

ゴッホのひまわり

2018-01-06 11:54:42 | 日記
ゴッホは炎の画家と称されるほどに、その独特な筆致が特徴的である。描かれている対象はそれが空や人物や花であれ、燃え上がる炎のような動的生命力に満ち溢れている。

西洋美術史において、ゴッホはゴーギャンやセザンヌなどと共にポスト印象派として位置付けられているのだが、文字通りこの3人の画家は印象派の影響を受けつつも、その表現を三者三様に止揚し超克した偉大な画業を成し遂げた人々だ。ただ、人間的にはその性格にそれぞれ癖があったようで、友人にはしたくないタイプかもしれない。ゴッホはその短い生涯を自殺で終えているし、有名な耳切り事件以降、精神に異常をきたし精神病院に収容された経緯がある。そして、その事件の発端は、当時ゴッホと同居していたゴーギャンとの絵画論を巡る論争であったとも云われる。ゴーギャンは青年期に軍役に就いたり画家になる前は株式仲買人をして世俗的に成功していたこともあり、駆け引きに長け口論ではゴッホが常に言い負かされていたのではないか。どうもそんなフラストレーションが溜まり過ぎた状態からゴッホが暴発したのが事実のような気がする。事件の記録に残っているのは、ゴーギャンの証言のみなので、これは私の個人的な推測に過ぎないが、想像を膨らませる余地はあるだろう。

私はゴッホの絵の中では「ひまわり」が一番好きである。この作品は連作としても有名だか、壺に生けられたひまわりに特に惹かれる。日本でもこのタイプのひまわりの絵は、新宿の東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館に所蔵されており、常設展示されている為、首都圏に在住されている人はこの絵に会おうと思えばさして手間はかからない。私も何回かこの美術館でこの「ひまわり」と対面している。

花の絵というのはインテリアになりやすい。室内に飾るには都合の良い題材なのだ。この為、当然のこと色合いは美しく上品なものが好まれるわけだが、ゴッホの「ひまわり」はそのような様式美だけではなく、花という存在を通して、生物の宿命が表現されているように思えてならない。綺麗に咲いている花もいずれは枯れて消えていく。数多ある花の絵の多くは、生を謳歌する瞬間を切り取った印象しか伝わってこないのだが、ゴッホの描いたひまわりには、その美しい黄色の中に生老病死の全てのイメージが詰まっている。この為、絵と対峙すると、すとんとそこにはまったようにして自然な流れで謙虚な気持ちにさせられるのだ。これはお寺や教会など宗教的な空間に身を置いた時に感じられる清浄な空気感にどこか似ている。ゴッホは画家になる以前は牧師を志していたらしい。そして、ひまわりを描いていた頃のゴッホはまだ精神を病む前の状態にあり、絵には希望が感じられる。人生において、前へ進む勇気をもらえる絵である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする