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アリストテレスとアレキサンダー

2021-10-31 20:46:05 | 日記
前回、ガンダーラ美術のブログ記事で、アレキサンダー大王の大東征に関しても言及した。今回はそのアレキサンダーの家庭教師をしていたアリストテレスを中心に、彼が生きた時代と彼自身、それに現代社会にも反映されているその哲学や思想についてシンプルに述べさせていただく。

予めシンプルにと断ったのは、アリストテレスが古代ギリシャの哲学者として代表的な人物であるだけではなく、万学の祖や知の巨人と評されるように、とてつもない影響力を有しているからだ。つまり彼の研究分野があまりにも多岐に渡る為、ここは焦点を絞って考えてみたい。

アリストテレスはソクラテスの弟子のプラトンの弟子であり、彼らは三者三様だが、学問において人類に大きく寄与したという点では、古代中国の孔子を超える。古代ギリシャ哲学というと、西洋文明の土台としての印象が一般的には強いかもしれない。しかし事実はもっと複雑怪奇だ。恐らく地球規模の視野で判断するならば、古代ギリシャ哲学は古代中国の儒教の影響範囲を凌駕している。

事実、紀元前4世紀、アリストテレスの存命中に、アレキサンダー大王の大東征で壊滅したアケメネス朝ペルシャの地中海沿岸からインダス川流域に至る広大な帝国領はもとより、さらに東方のインドへも古代ギリシャ哲学は伝播し、そこで仏教と出会い、国家に保護された仏教の解釈においても思想的インフラとして機能した観さえあるのだ。また古代ローマ帝国皇帝や貴族の哲学を含めたギリシャ文化への耽溺ぶりは半端ではなかった。

そして古代ギリシャ文化が浸透した一帯はヘレニズム世界とも呼ばれていたわけだが、時代が進むにつれて、ソクラテスとプラトンよりもアリストテレスの存在感が際立ってくる。それは彼がソクラテス、プラトンとは違いアテネの市民権を有していなかった境遇と、資質や個性もその大きな要因だ。多分ソクラテスやプラトンよりも自らの思想信条を実用的な次元に落とし込める才覚は、アリストテレスが一枚も二枚も上手であったように思える。しかし師のプラトンやそのまた師のソクラテスが存在しなければ、アリストテレスが後世において超一級の哲学者の称号を得ることは無かった。そこはやはり見落とせない。

古代から中世へと時代が移ると、今度は国家に保護されたキリスト教やイスラム教の解釈においてさえ、先に述べた仏教に対してのようにアリストテレスの体系化した哲学的思想は重宝されるようになっていく。そして宗教のみならず、近世のルネサンスを経て自然科学が進歩し産業革命が発展した近代以降、科学の万能性を積極的に肯定する世界観としてもアリストテレスは利用されてきたようだ。

今回紹介するのは、そんな深海から大宇宙までをも網羅しそうなアリストテレスの思想や哲学のほんの一断片に過ぎないが、実はこれが今を生きる私たち現代人にとっても馬鹿にできない部分なのだ。それは端的に述べると人間関係における説得方法かもしれないが、実際にはその範疇を超えてアリストテレス本人がアレキサンダーに授けたリーダーとしての心構えである。謂わば王になる運命を約束された王子が身に付けるべき帝王学に値するものだ。

アリストテレスの出身地は古代ギリシャの都市国家の1つ、マケドニア王国だが、青年期以降に彼は師のプラトンがアテネに創立したアカデメイアに入門し学徒となる。そこでプラトンが他界するまで約20年以上も在籍していたが、学業に専念するだけではなく教職にも就いていた。そしてアカデメイアの優れた点は、学園でありながら講義よりも一問一答の、教える者と学ぶ者との対話形式による教育を重視していたことだ。

つまりアカデメイアでの充実した経験を踏まえたアリストテレスから、アレキサンダーは英才教育を受けることができた。彼は32歳という若さで生涯を終えるが、華々しい戦役のみならず、アリストテレスと出会えたことも含めると歴史上類稀な強運の持ち主である。そしてアレキサンダーが学んだリーダー論において、最も活用したと思われるのが、ロゴスとエトスとパトスを組み合わせて人を動かす人心掌握術だ。ロゴスは論理、エトスは倫理、パトスは情熱である。アレキサンダーが父親から王位を継いで以降の行動を振り返ると、かなりこのツールを重用していたことがわかる。

アレキサンダーの少年期、バルカン半島のギリシャ地域は、アテネやスパルタといった都市国家が乱立し、東の超大国アケメネス朝ペルシャからの強大な脅威があったにも関わらず、ギリシャ人同士で内輪揉めをし、時には都市国家間戦争まで繰り広げて、アケメネス朝ペルシャの介入で停戦協定を結ぶような有様であった。また古代ギリシャ兵は勇猛なことで有名だが、都市国家の経済を軍事産業も支えていた為に近隣の諸外国に傭兵を輸出している。つまりアケメネス朝ペルシャがスパルタから輸入した傭兵を主力にして、アテネに戦争を仕掛けることさえあった。恐らくアリストテレスはこうしたギリシャ人同士が戦場で殺し合う光景は愚の骨頂だと常々感じていたはずだ。

そしてアレキサンダーの父親フィリッポス2世は軍事的才能に長けた王であり、ギリシャ統一を目指して奮戦した結果、コリントス同盟を結成し、スパルタ以外のギリシャの都市国家を纏めることに成功する。アリストテレスがフィリッポス2世に招かれて故郷マケドニアに帰還し、アレキサンダーの家庭教師に就くのはこの時期だ。こうしてアレキサンダーは父親から武力を、アリストテレスから知力を学べる高度な学習環境を整えたことになる。

アレキサンダーが大王と称賛されて、歴史上かつてない大遠征を成功させるのは、父のフィリッポス2世が暗殺で倒れ、20才で王位を継承してから僅か5年足らずのことだ。実に恐るべきスピードだと言わざるを得ない。しかも父の死をきっかけにコリントス同盟が分裂しそうな危機にも素早く対応し、ギリシャの都市国家を一枚岩にして超大国アケメネス朝ペルシャを滅亡に追い込んだ。これは巨大な怪物を倒したら、今度は倒した側が巨大な怪物になっていたというような顛末だが、この過程で例のロゴスとエトスとパトスが劇薬のように作用している。

この大遠征を結果だけ見ると、アレキサンダーというスーパーマンが魔法でもかけたようにして、小国の連合軍で超大国を打ち負かした英雄譚を想像する向きもあるが、事実は当然そんな生易しいものではなかった。実際、紀元前333年の大会戦イッソスの戦いにおけるギリシャ連合軍の兵力は敵の大軍の半分にも満たなかったし、何よりも敵側にも屈強なギリシャ傭兵が存在する。それゆえ、いざ戦闘開始になったら、ギリシャ連合軍が瓦解する可能性もあった。ここでアレキサンダーは味方の全兵士に対して、まず最初にロゴス、つまり論理で説得を試みたはずである。

要はこの戦争による勝利の果実がいかに大きく、それによってギリシャ社会における現状の問題解決が図れる、事態が良くなる、日々の生活が改善する、そしてこれはそれを実現できる絶好の機会だということを筋道を立ててわかりやすく説明したと思われる。またアレキサンダー自身が美形の容姿でカリスマ的な魅力があり、それは現存する絵画や彫刻で表現された姿からも確認できるが、単なる見掛け倒しではなく、戦略を練れる頭脳と、それを自らが先頭に立って戦術で実践できる身体能力も有していた。

恐らくこのロゴスの段階で、戦闘準備に入っている全兵士は納得したと思われる。しかしアリストテレスがアレキサンダーに授けたのは、ロゴスという論理だけではない。その論理を補強する倫理、つまりエトスも必要になってくる。アレキサンダーはそこも万事怠りなかった。このイッソスの会戦の結果、アケメネス朝ペルシャは大敗し、中東や北アフリカの領土を失うのだが、この地域は元々エジプト文明やメソポタミア文明が栄えた先進的な農耕文明圏であり、アレキサンダーは自らが指揮するギリシャ連合軍を侵略者ではなく、超大国の野蛮な暴政から解放する正義の使者だと行く先々でアピールし、しかも現地の神々の神託まで受けたような演出をしている。ここで倫理にかなったエトスのパワーが発揮されたわけだ。

そしてこのロゴスとエトスの相乗効果を最大化するのが、パトス即ち情熱である。アレキサンダーのカリスマ性はこのパトスの段階でも遺憾なく発揮された。要するにこの解放戦線の正当性を大演説で熱く語り尽くしたと思われる。恐らくアレキサンダーを見て聞いた人々は即座に魅了され洗脳されてしまったはずだ。こうなるともうアレキサンダーに戦場で鼓舞された軍団は死をも恐れずに無敵化していくしかない。

このようにしてアレキサンダーの軍団は東へ東へと進み、イッソスの戦いの2年後、アケメネス朝ペルシャの帝国領心臓部にまで侵入し、ガウガメラの戦いで雌雄を決することになる。ただこの大会戦は大軍に有利な平原が戦場になったにも関わらず、運も味方して数では圧倒的に不利なアレキサンダー側の大勝利に終わる。そして彼は破壊した首都ペルセポリスに入城し、以後大王と恐れられるようになるわけだ。これでアケメネス朝ペルシャは崩壊したが、各地に反ギリシャ勢力は残存した為、虐殺を含めた殲滅戦に突入していく。

ここまでの経緯を知ると、やはりアリストテレスの帝王学が必要不可欠であったことは明白だ。そしてこのアレキサンダーの大東征における、ロゴスとエトスとパトスをセットで活用する方式は、その後の歴史で踏襲する人々が多数現れてくる。代表的な例を挙げるなら、古代ローマ帝国終身独裁官ユリウス・カエサル、フランス第一帝政の皇帝ナポレオン・ボナパルト、それにナチスドイツ総統アドルフ・ヒトラーあたりだ。

ここで気付いていただきたいのは、アリストテレスからアレキサンダーが学んだこの帝王学を借用した人々は、独断専横型のリーダーが多いことである。しかもその殆どが戦争で領土を一挙に拡大させ、一旦は大成功を勝ち得ても結局は破滅してしまう。そしてこういった歴史に名を刻む大物ではなくとも、現代社会において、このような独裁者タイプはそこそこ目にすることができる。特に典型的なのはブラック企業の経営者だ。彼らはアリストテレスの帝王学にアレンジを加えたツールを巧みにマスターしている。

ブラック企業は、今では様々な分野に存在しているが、特徴的なのは従業員を長時間労働で疲弊させたり、パワハラやセクハラで心身へ過酷な圧力を加えてくることだ。実はこうした劣悪な職場環境は、悲惨な戦場に似ていなくもない。そして耐え難い状況に耐えれるようになってしまうのは、健全な自己変革や成長ではなく、他者からのマインドコントロールで自己を喪失してしまったからだ。それゆえこの悪質な状態から抜け出すには、洗脳の呪縛を解く必要性が生じる。

アレキサンダー大王に話を戻せば、ロゴスとエトスとパトスにおいて、彼が最も注力したのはエトス、つまり倫理であったようだ。なぜなら古代ではあっても、庶民にとって戦争という人災は損害が大き過ぎる。この為、軍団の兵士や征服地の人々が疑問を抱く隙を与えないほどに、大義や正当性をアピールし続けている。具体例としては、ギリシャ兵たちと現地の女性たちとが集団結婚式を行うなどして融和策をとり、異文化に理解を示したことだ。これはアレキサンダーがバルカン半島のギリシャ地域では北西端に位置するマケドニア出身であり、保守本流のギリシャ系ではない為に、実のところ尊大なギリシャ文化よりも、異文化に対する親和性が意外と強かったからかもしれない。

しかしその一方で、支配地の多くの場所にアレキサンドリアという自らの名を冠した都市を建設した。これはアレキサンダーという人物が異文化を容認しても、個人崇拝を強力に推進した証拠ではないか。そして組織において個人崇拝を確立したがるリーダーは、現代だとブラック企業の経営者や新興宗教の教祖に多い。彼らに共通するのはひたすらに膨張する異様で病的な支配欲だ。

アレキサンダー大王は西洋史における英雄のランク付けがあるとしたら、トップに燦然と輝くほどに人気があることは疑いを得ない。しかし彼の大東征を参考にして、ナポレオンやヒトラーといった最凶の独裁者が出現したこともまた事実である。特にこの2人は演説における洗脳の達人だとも評されていた。人間の歴史には、カリスマ的人物が中心となって大きく流れを変化させる時がやって来るようだ。ただ、それが最大の人権侵害である戦争を肯定し、戦争が起きるような事態を私たちは受け入れるべきではない。

そしてどうもアリストテレスは、歴史を大きく変えてしまうことになるアレキサンダーという教え子に対し、帝王学における野望の必要性を説いていたようには思えない。むしろペルシャ征服という野望をアレキサンダーに植え付けたのは、父親フィリッポス2世であろう。なぜならマケドニアが古代ギリシャ都市国家群において、劣等な後進国扱いをされていた事態を打開する為に、軍事強国化路線を突き進み、ギリシャ統一を目指した彼にしてみれば、その行き着く先は超大国アケメネス朝ペルシャの打倒であった。

アレキサンダー大王は、異郷での軍事的な暴走の渦中にあって、アリストテレスの言葉は自問自答及び自省を促す良薬だとも述べている。実際、彼の果てしなく東へ続く戦線が、ついに停止するのは、例のロゴスとエトスとパトスが通用しなくなった時だ。インド侵略を前進させる為に、アレキサンダーは戦意高揚や奮起を必死に説いて回ったが、もう故郷に帰りたい、家族に会いたいという真摯な1人の兵士のもらした言葉が、さざ波のように広がり、全兵士はやっと洗脳の鎖から解き放たれる。

ここでアレキサンダーは矛を収めて軍勢を引き返すのだが、撤退する彼の脳裏にはアリストテレスの幸福論が聞こえていたかもしれない。それは幸福とは、失われる可能性にあるのではないということだ。したがって重要な概念は中庸であり、何事も行き過ぎてはならないということである。
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ガンダーラ美術

2021-10-09 23:45:22 | 日記
ここ数ヶ月ほど、仏教に関して多く記述しているような気がする。仏教のみを主題にしたわけではないが、ミャンマーのクーデターにしろ、雪舟の絵にしろ、やはり仏教を抜きにしてその全貌や核心を把握することは困難に思えるからだ。そして仏教の歴史を紐解くと、上座部仏教と大乗仏教に大別されるという話も書いた。今回はガンダーラ美術が主題だが、これは仏教美術において、私たち日本人に根付いている大乗仏教を礎とする。

ガンダーラは現代のインドとパキスタン両国に被る地域だが、古来よりここは大国に翻弄されてきた歴史がある。特に紀元前7世紀に地中海沿岸からインダス川流域に至るまでの大版図を誇った超大国アケメネス朝ペルシャに領有されていた時代から、紀元前4世紀その超大国がアレキサンダー大王の大東征で瞬く間に崩壊すると、超人的に活躍した大王の呆気ない急死で後継のセレウコス朝の支配下に入る。ところが間もなくして今度はインドのマウリヤ朝に侵略されてしまうのだ。大変慌しい流れだが、これが約100年足らずの間に展開している。その大掃除のような攻防の後、様々な民族が交差しながらも、古代においてこの地はギリシャ系の人々が多く住んでいたようだ。

以前にこのブログで、仏教の創始者の釈迦は後世において、本人が像にされて拝まれることを望まなかったであろうと述べた。そして仏像が発生するのは、やはりアレキサンダー大王がインド亜大陸にまで遠征したことが一因だ。つまり大王の出生地マケドニアを含めたバルカン半島のギリシャ地域から、オリンポスの神々を表現した古代ギリシャ彫刻の写実的な美術様式がガンダーラ地方を含めた北西インドや中央アジアに伝わったことで、その影響を受けてこの釈迦像は創造されたと云える。

仮にこうした経緯を知らなかった場合、私たち日本人はこのガンダーラ美術の代表作である釈迦像に相当な違和感を覚えるはずである。なぜなら日本人に馴染み深い仏像とは、もっと目が細く鼻も高くない黄色人種の顔をしているからだ。ところがこの釈迦像は明らかに黄色人種よりも白人種に近い印象を抱かせる。しかしインド史に焦点を当てれば、実在した釈迦は肌の色はともかくその骨格が白人種であったことはまず間違いない。つまりこの釈迦像の方が、日本列島や朝鮮半島、それに中国大陸で一般的に見られる仏像の釈迦よりも現実の姿に近いのだ。

それは釈迦の出自が王国の王子であり、インド亜大陸の支配階級であったことに起因する。彼らは遥か昔に黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス周辺に住んでいた白人種のアーリア人だ。そしてアレキサンダー大王の大東征よりもさらにずっと遠く古い時代のどこかのタイミングで、大移動を敢行してインド亜大陸に侵入した外来民族であった。釈迦はその末裔に当たる。つまりこうした歴史を踏まえるならば、正直なところ釈迦はやはり白人になってしまう。

それはともかく釈迦が仏教を起こしたのは、勿論のこと古代インド亜大陸の先住民を征服した侵略者の先祖を讃える為ではなかった。現代社会と同様に酷い格差が存在し、戦乱や搾取が絶えない惨状を憂い、これを善処することを真剣に模索しており、そしてそれは詰まるところ組織だって何かを計画し遂行することではなく、むしろ人間一人一人の意識改革であったように思われる。釈迦が過酷な苦行を放棄し瞑想することで悟りの境地に達するのは壮年期以降のことだが、この釈迦像の表情は実に清々しく、そこへ既に到達していることが感じられる。

私が古代ギリシャ彫刻で最も魅了されるのは、古拙の微笑みと呼ばれるアルカイックスマイルだ。この抑制された表情の口元には微笑みが見受けられるのだが、実は嘆きと紙一重でもある。特に古代ギリシャ彫刻には、瀕死の兵士の彫像も造られており、意外にもその口元は微笑んでいる。これは恐らく当時の無惨な戦場下で致命傷を負い死んでいく男が、死を迎えて不条理な生からやっと解放される瞬間、つまり苦痛の消失による儚い安堵を表現したように思えてならない。

古代のガンダーラ地方も先に述べたように、大国の狭間で戦禍が絶えない時期が多かった。戦争を指揮したアレキサンダー大王やセレウコス朝シリアのセレウコス1世やマウリヤ朝インドのチャンドラグプタ王には、所詮は末端で駒のごとく働かされる一兵卒の気持ちには、想像が及ばなかったかもしれない。しかしながらこの釈迦像はそれを熟知している。口元の微笑みには、やはり嘆きと紙一重の趣きが漂っているからだ。そして興味深いことに、アレキサンダー大王もセレウコス1世もチャンドラグプタ王も英雄視されて彫刻化されているにも関わらず、彼らの威厳に満ちた表情にはアルカイックスマイルの要素は皆無である。

ガンダーラ美術が花開くのは紀元1世紀以降で、インド北部から中央アジアを領有していたクシャーナ朝が仏教を厚く保護していた時代だ。ただインドは中国とは異なり小国が分立し、広大な版図を有する大帝国の王朝が勃興するケースは少ない。中国大陸が古代に秦の始皇帝によって統一された後に戦国期はあったにせよ、漢、隋、唐、宋、元、明、清といった数多くの歴代王朝が誕生したのとは対照的だ。恐らくそれはインド亜大陸が赤道を挟んで、北半球と南半球に跨っていることも大きな理由だと云える。つまり気候や風土も多様な上に、多人種、多民族、多宗教が混沌と混在した大陸を統一するのは至難の業なのだ。それを証明するかのように、実質的にインド亜大陸全域を支配下に収めた巨大帝国の王朝は紀元前4世紀から約200年ほど続いたマウリヤ朝だけである。そしてそのマウリヤ朝の領土が最大化するのは、仏教が国王に最大級の保護を受けた時だ。

それは初代チャンドラグプタ王の孫のアショカ王の時代に現出した。そしてこの紀元前3世紀に隆盛した仏教は上座部仏教である。元来マウリヤ朝は軍事力でひたすら領土拡大を図る覇権国家であったが、3代目のアショカ王は激烈な征服戦争の果てに、絶え間ない殺戮による惨禍を目の当たりにしてついに改心する。そして暴力を放棄し仏教に帰依した。

時の権力者が悔い改め、圧政から善政へと方針転換することは素晴らしいことである。このターニングポイントから、上座部仏教は北半球はアフガニスタンから西方のギリシャ語圏やペルシャ語圏やアラビア語圏を含めたヘレニズム世界へ伝わり、さらに南半球はインド料理でも有名なアーンドラ地方にまで広がっていく。しかも海上交易を通じてスリランカや東南アジア地域にも上座部仏教は伝来していくのだ。尤もこの頃はまだ、中国大陸や朝鮮半島、それに日本列島には仏の教えは殆ど伝わっていない。 

アショカ王が統治したマウリヤ朝の時代、ほぼインド亜大陸全域から東南アジアへ上座部仏教が伝来しはじめた頃に、釈迦の神格化が強まりだす。仏像はまだ発生してはいないが、釈迦の位牌を崇拝するスタイルが浸透していく。その遺骸を納めたとされる卒塔婆の登場である。特に圧政から善政に切り替えてからのアショカ王は病院を建設したり、拷問や死刑を廃止したりと、暴虐で血塗られた前半生を猛省して社会に仏法を反映させることに熱意を持って取り組んだ。ただし上座部仏教に特徴的な、上から下へ仏の教えを高圧的に教化する姿勢は健在で、詰まるところ釈迦の権力への利用が常態化してしまう。

これはガンダーラ美術が生まれたクシャーナ朝の統治体制にも共通する。クシャーナ朝は紀元後1世紀から3世紀にかけて、中央アジアから北インドを支配していたが、小国ではない多民族や多人種を要する帝国ではあっても、当然のこと紀元前のマウリヤ朝の広大過ぎる版図には及ばない。しかし、先にも述べたように古代ギリシャ彫刻のアルカイックスマイルがガンダーラ美術に伝承されたことによって、仏像を崇拝する人々の心に、釈迦の威光を利用する権力を支持する、謂わば強者に憧れてそこに感情移入し、自らの社会的弱者の立ち位置を忘れてしまえる気持ちとは違う、権力に洗脳されない、もっと深くて純粋な信仰心も芽生えていたように思われる。たとえば心が救済されて豊かになることで、身近な人々への感謝や思い遣りも生まれ、結果的に犯罪も減って社会全体も浄化されてゆくというような。特に大乗仏教は上座部ではない大衆部の僧の布教活動で、仏の教えを知る余裕さえなかった貧困層にも浸透していくわけだが、それはまず仏像と出会うことで釈迦の存在を感じることから始まったのかもしれない。

クシャーナ朝は実はインド人ではなく、ペルシャ人が支配層の王朝である。そして最盛期のカニシカ王は、マウリヤ朝のアショカ王のように自ら仏教徒にはならなかった。この為、大乗仏教の政治利用の側面が非常に強い。特に大乗仏教がそれまでの上座部仏教よりも民衆の支持を多く集めたことで、王の治世は揺るぎないものになった。そしてカニシカ王は経済政策を含めた外交に長じた指導者で、西の古代ローマ帝国や、東の漢帝国とも交易している。つまり日本に仏像や漢訳された仏典を含めた大乗仏教が伝来した決め手は、古代インドにこのクシャーナ朝が存在していたことだ。

ガンダーラ地方の仏像と日本の仏像を比較すると、白人種から黄色人種に容貌は変化しているものの、やはりそこで共有できるのはあのアルカイックスマイルである。そしてガンダーラ美術における彫刻には、古代ギリシャだけではなく、その様式を継承した古代ローマの色合いも微妙に含まれている。それは当時のギリシャ地域のバルカン半島が古代ローマ帝国の領域内であり、そこで暮らす彫刻の制作者は古代ローマ帝国に属していたからだ。クシャーナ朝は積極的に古代ローマ帝国と交易していた為に、彫刻を介した人的交流も盛んであったが、ガンダーラ美術の担い手はどうやらギリシャ系の人々であったと思われる。しかも時代の変遷で古代ローマの歴代皇帝は教養としてギリシャ語をマスターするほど古代ギリシャの文化を尊重していた。つまりクシャーナ朝は文化的にはギリシャ化しつつあった古代ローマ帝国から彫刻技術を輸入していたのだ。

人物彫刻において古代のギリシャとローマの違いを一言で表すならば、古代ギリシャ彫刻は官能の美であり、古代ローマ彫刻は退廃の美であると云われる。そして古代ローマ彫刻の退廃の美に潜むのは、権威や権力の腐敗によって不条理が横行する人間社会に対する厭世観ではないか。これは仏教の末法思想や、キリスト教の終末観にも相通じるように思われる。ガンダーラ美術が、中央アジアから中国大陸を経由して遠く朝鮮半島や日本列島にまで大乗仏教と共に届いたのは、仏像を造形する人々がその創造の過程において、変容しながらもアルカイックスマイルを取り去らなかったからだ。その微笑と悲嘆が紙一重で同居する仏像の口元には、衆生を照らす慈悲の光が感じられる。
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