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トルストイ運動

2022-11-13 16:07:39 | 日記
レフ•トルストイはロシアの文豪であり、その錚々たる作品群は世界文学史においても燦然と輝く不朽の名作が多い。特に代表的なのは「アンナ•カレーニナ」と「戦争と平和」の長編2作品であろう。私もこの波瀾万丈な一大叙事詩とも云える2つの大作を若い頃に読んだが、注目すべきは両作品とも何度か映画化されており、しかも国産だけではなくハリウッドでも制作されたことである。勿論、原作小説の舞台はロシアであり、主要登場人物たちもロシア人ばかりなのだが、それでも外国の映画人が制作に携わりたくなるほど、トルストイが創造した物語は時空を超えた普遍的魅力に満ち溢れているわけだ。

ただこの2作品、実は読者に誤解されてしまう側面も存在する。特に「戦争と平和」は祖国防衛戦争の勝利への礼賛や、平和を維持する為の戦争の必要性を主張した世界観に貫かれているとする見方や、「アンナ•カレーニナ」も美貌の女性主人公を中心に不倫を魅惑的に描いた恋愛絵巻だとする見方だ。しかしここであえてそうした見方は大きな誤解だと言いたい。なぜなら作者トルストイの人間性や生前の言動から判断する限り、それはほぼ的外れであるからだ。

そして数有るトルストイの名作の中で、その最高峰は恐らく「復活」であろう。その理由はこの作品には、トルストイの宗教観や思想信条の結晶が如実に感じとれるからである。また「戦争と平和」と「アンナ•カレーニナ」はトルストイが30代から40代にかけて執筆し完成させた作品なのだが、「復活」は60代の晩年にとりかかった作品で、それこそ作家人生の集大成とも云える労作なのだ。しかも特筆すべきは欧米だけではなく、アジアでも映像化されており、日本では溝口健二監督が「愛怨峡」というタイトルで制作している。

トルストイは帝政ロシアの貴族階級のしかも伯爵家の大地主の出自である。ところが彼の生涯はロシア帝国の支配層に安住することではなかった。むしろ高潔なキリスト教精神から貴族の特権を手放す道を歩んでいる。象徴的なのは、保有する大規模農園の農奴を解放し、自らも農業労働者として共に働き、菜食主義を実践したことだ。これは農業をキリスト教における慈愛の精神で理想化したようなスタイルで、そこで人と暮らす動物たちも家畜ではなく、一緒に働く家族の一員になっている。また存命中に海外でも出版されるほどの著名作家であったにもかかわらず、殆どの作品の著作権を放棄してしまう。この為、有難いことに私たち日本人もネット上の青空文庫で、トルストイの翻訳小説の読書が可能になっている。

莫大な財産を貧困層に援助して流し続ける博愛的なトルストイが主導した農園は、ロシア皇帝の権力やロシア正教会の権威とは逸脱する方向性で運営されていく。これは権威や権力が民衆からの搾取を礎としている以上、そうなってしまうのは当然だ。またトルストイは教育分野への関心も深かった為、自身のビジョンに基いた学校を設立したり、初等教育の教科書も作成しているが、ここでも政府からの圧力を受けて学校が閉鎖に追い込まれたり、教科書の拡販にも難渋したようである。実際、トルストイの著作は帝国政府の検閲によって国内では発禁処分となり、国外で出版されることも多かった。

そしてこのように権威や権力と決別していくその大きな要因は非戦論の主張である。トルストイは聖書の精神を無視して戦争を肯定する当時の帝国主義諸国を、作家活動を通して糾弾した。しかも彼の立ち位置は客観的には反政府的であったが、反政府活動の暴力は否定している。こうしたトルストイの思想と行動はその影響を受けた支持者が支持者を呼び、やがて教会組織には所属せずに、イエス•キリストの精神や教えに導かれながら農園コミュニティを形成するトルストイ運動がはじまった。これは草の根レベルではあってもロシア国内どころか全世界へと波及していく。そしてそれが最大級の成果を発揮したのは、非暴力と不服従を貫き通して大英帝国からインドを独立させたガンジーの行動だ。トルストイとガンジーは直接会ったことはなく、約1年間の手紙のやりとりの交流だけだが、トルストイの息子の世代よりも若いガンジーは、このロシアの文豪の著作から偉大な叡智を学ぶに至った。

トルストイの徹底した暴力嫌いは、彼のイエス•キリストに対する正確で真摯な解釈もあるが、彼自身が20代前半に軍役に就いてクリミア戦争に従軍した経験も大きい。このロシア帝国とオスマン•トルコ帝国がクリミア半島や黒海の覇権を賭けて争った戦いは、約3年もの歳月を費やし、大英帝国やフランス帝国がオスマン•トルコ帝国側についた為に、ロシア帝国は大変な苦戦を強いられた。そして結局は膨大な戦死者を出して、参戦国全ての疲弊により終戦を迎える。この時期、若きトルストイが既に研ぎ澄まされた作家の感性を持っていたことは明らかで、悲惨な戦場の光景をまざまざと目に焼き付けてしまったようだ。そして「戦争と平和」といった戦争を題材にした小説世界にそれは如実に反映されていく。

「戦争と平和」はフランス皇帝ナポレオンが1810年代に敢行したロシア侵攻と、そのように巨大な人災に遭遇したロシアの人々の群像を描いた大迫力の大河物語だが、国難に巻き込まれた若者の心の変化と成長の過程で感じられるのは、愛国心よりも平和思想である。要は古代ギリシャの哲学者アリストテレスの言葉通り、戦争で勝つよりも平和をつくることの方が大切だということだ。特に主人公の1人アンドレイが、アウステルリッツの会戦で負傷し大地に倒れた後、彼の視界に現れた大空の光景が全てを物語っている。晴天ではないが果てしなく高く、ゆっくりと灰色の雲が棚引く情景を目にし、無惨な戦場の中、戦争とは異次元の静寂と平安の希少さを感知する。そして無限の象徴のような空から受けた天啓のせいで、それまで敵でありながらも見事な戦術や戦略を駆使する英雄として憧れてもいたナポレオンが、貪欲な野心の為に民衆を犠牲にし続ける卑小な戦争指導者へと変わってしまう。

一方「アンナ•カレーニナ」の舞台は1870年代のロシア社会であり、トルストイ本人が生きた時代とリアルに重なっている。つまりナポレオンの侵攻の爪痕から回復して久しい頃であり、登場人物の貴族の人々には、強大なナポレオン率いる無敵のフランス軍を撤退させた帝国臣民としてのプライドや余裕も窺えるのだが、同時に軍拡路線を走る帝国政府の未来に一抹の不安を感じてもいる。事実、ロシア帝国にはオスマン•トルコ帝国との地政学的紛争で南下政策を成功させつつも、反政府勢力の武装蜂起や政権内部の権力抗争によって、繁栄から衰退へ向かう不穏な空気も漂っていた。それは貴族たちの会話の奥からも垣間見えてくることで、そこには巨大な帝国の終わりの始まりのような予感がある。

ヒロインのアンナは物語の冒頭で、彼女の兄が不倫をしたことで夫婦間に亀裂が入り、気落ちしたその妻を慰めるべく彼らの家を訪ねに行くところなのだがその途中、列車内でブロンスキーという魅力的な男性と運命的に出会う。アンナは高級官僚でかなり年長の夫を持つ才色兼備の人妻だが、この独身でハンサムな青年士官ブロンスキーに魅了されて人生の歯車が狂い出し、ここから文学史上、卓越した情景描写と心理描写で構成された不倫の愛憎劇が始まる。しかしここで読者の心に突き刺さるのは、不倫の泥沼にはまってしまったアンナがキリスト教倫理やそれに反する自身の行動に、真綿で自分の首を絞めるようにして苦しみ続ける姿だ。また世間体から離婚を決して許さない夫よりも、幼い息子への裏切りに苦悩するアンナの、愚直な迄の誠実さも伝わってくる。

そしてそのようなアンナの人間性は、彼女を取り巻く貴族社会において珍奇であり、むしろ浮気症の夫と友情を築き、愛人に愛情を注ぐ貴婦人たちが横行しているのが、贅を尽くしたロシア宮廷の社交界の現実であった。いわば公然と不倫を楽しんでいる人々が大手を振って歩いており、アンナはそのような人々から馬鹿にされている印象さえ受ける。確かに皇族や貴族の結婚は政略によるケースが殆どであり、彼らは恋愛が発生する以前に結婚してしまったがゆえに、配偶者はもはや恋愛対象にならず、不倫を楽しむことで生き甲斐を得ているのかもしれない。しかしそこは表面は煌びやかでも、国家財政を浪費する虚飾と欺瞞だらけの醜怪な世界なのだ。

この物語において、アンナ個人の人生は破滅で幕を閉じるのだが、それとは対照的にアンナの兄の妻の妹キチィは、アンナがブロンスキーと不倫関係になる以前、恋焦がれたブロンスキーに捨てられた女であった。そしてキチィ自身は一度は求婚を断ったリョービンという男性と幸福な結婚をすることになる。それはブロンスキーから受けた痛手を恢復していく過程で、再度の求婚を受け入れたからであった。ブロンスキーに比べるとリョービンは女性の目を引く男性的な魅力に欠ける人物なのだが、彼はキチィの父親には初対面の時から好印象で、貴族ではあっても良心的な地方地主である。この為、ロシア帝国の支配下では奴隷同然の扱いを受けている農民たちの待遇を改善しようと日々努力している。この辺り、リョービンは作者トルストイの分身なのかもしれない。

そして物語はリョービンが自分自身と家族の未来に対する慎ましい展望を、夜空の星々を眺めながら静かに思い描くところで終わっている。ところがこのラストの素朴な田舎の風景に佇むリョービンの思考は、トルストイの最高傑作「復活」に繋がっていくのだ。リョービンが指向するロシアの未来社会とは、宗教的には主流の正教も旧教も新教も含めた全てのキリスト教徒が、イスラム教徒や仏教徒といった他の宗教を信仰する人々とも仲良く共存し、しかもそれだけではなくロシアよりずっと歴史が古く、ロシアへも影響を与え続けてきた中国大陸の儒教圏の人々との共存をも平和的に目指すものである。そしてそれはヨーロッパ的でもあり、アジア的でもあるロシアの郷土だからこそ可能だと感じさせる、リョービンが願う夢であり理想であろう。

「復活」の時代背景は、恐らく「アンナ•カレーニナ」から多少の時が経過した頃だと思われる。トルストイは第1次世界大戦が勃発する前に他界しており、当然ロシアの共産主義革命に遭遇することもなかった。ただし、この物語を読むと、もはやロシア帝国の政権は遠からず崩壊することが容易に想像できる。特にこの「復活」は「戦争と平和」や「アンナ•カレーニナ」よりも登場人物が少なく、また作者トルストイの社会批判の目も具体的で非常に厳しい。この為、トルストイがロシア正教会から破門されたのは、作家活動を含めた彼の人生全般が反権威及び反権力に貫かれていたこともその大きな理由だが、「復活」を発表したことはその絶対的な決め手になった。つまりそれほどにこの小説作品は、権威や権力にとって完全無欠なまでに都合が悪かったわけだ。

トルストイの代表作の知名度としては、「戦争と平和」や「アンナ•カレーニナ」に比べると、「復活」が今ひとつ弱いのは事実である。しかし実際に読んで頂くとわかるのだが、非常に読み易いストーリー仕立てであり、物語世界にすんなりと入っていける。主人公はネフリュードフ侯爵という貴族だが、彼が陪審員を務める裁判からこの物語は始まる。「復活」に関して述べるのは、この程度にしておきたい。ネタバレすると未読の人は感動が減るからだ。ここで少し話は飛んでしまうが、実は宝塚歌劇において、トルストイのこの3つの名作が舞台化されている。私自身は宝塚歌劇を鑑賞した経験はないのだが、「復活」のサブタイトルを以前にネット上か、阪急電車内の広告で目にした記憶があり、かなりのインパクトを覚えた。それは「恋が終わり、愛が残った…」というものであった。

レフ•トルストイの墓は、モスクワから南へ200キロ近く離れた生地ヤーナ•ボリャーナの林の中にある。ただロシア正教会から破門された為に十字架は立て掛けられておらず、墓碑も墓碑銘もトルストイの名前も無い、長方形に土を盛り上げただけの姿らしい。これはトルストイ本人も望んでいたことで、少年時代に自分が植えた木の側に埋められたという。このロシアだけではなく、全世界の人々へ魂を揺さぶるような感動的な物語を創造し届けてくれた偉人が、未だ終わらないウクライナ戦争の惨状を知ったら悲しい目を向けるのは間違いない。そして今、戦場を放棄するロシア兵士や、祖国ロシアから逃げ去る道を選んだ人々は卑怯者などではなく、むしろトルストイの精神を継承しているように感じられる。またこのような流れは新しいトルストイ運動と云えるかもしれない。ガンジーはトルストイを非暴力の最大の使徒であり、道標として長年仰ぎ見てきた偉大な教師だと称賛した。以下はそのガンジーへ宛てたトルストイの手紙の言葉である。

「悪に抵抗しないでください。また、悪に加わらないでください。暴力行為に加わらないことです。そうすれば世界中の誰もあなたを奴隷にしないでしょう」
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