今月中旬に兵庫県立美術館で開催されていたパウル・クレー展に足を運んだ。クレーの絵は日本でも広く親しまれているのだが、日本人の好きな西洋画家ベスト5に入るほどではない。ネットで調べたあるランキング調査を拝見したら、1位はゴッホ、2位はピカソ、3位はモネ、4位はレオナルド、そして5位はフェルメールになっていた。この調査対象がどういう人々なのかは知らないが、意外性はさほど感じられず、ほぼ納得できる結果である。それでも多分、クレーはランキングの20位には余裕で入るのではないか。実際、今回展示されているクレーの絵は、日本の美術館が所蔵している作品が非常に多かった。
この展覧会では「創造をめぐる星座」や「20世紀美術に燦然と輝くスターたちとの共演!」といったキャッチコピーも冠されていたが、さすがにこれは商業的成功を意図した宣伝文句であろう。なぜならクレーという人はそんなに人脈が広い方ではなかった。1879年にスイスで誕生し、青年期にドイツへ留学して美術を学び、結婚して家庭を築いて以降、無名の画家時代には音楽教師の妻に家計を支えられていたが、家事は万事怠りなく彼が担当し、愛情豊かな育児日記を書いたりしている。
美術史で有名な「青騎士」という芸術家のグループでも公認されたメンバーではなかったし、本当のところ余り社交的ではない分、家族や気心の合う画家仲間を含めた少ない友人たちとの狭い人間関係の範囲で、ささやかな幸福を志向していたのではないか。また父親が音楽教師であり、母親も音楽学校で声楽を学んでいた環境で育った為、彼自身も趣味でヴァイオリンを弾くほど音楽愛好家であった。恐らく妻のリリーも経済的に裕福ではなくとも、音楽に守護されたような慎ましく幸福な家庭を望んでいたと思われる。
展覧会の展示構成は10代の未成熟な絵から、最晩年の還暦に描いた遺作までを、6つの章に分けて展示していた。1章が「詩と絵画」、2章が「色彩の発見」、3章が「破壊と希望」、4章が「シュルレアリスム」、5章が「バウハウス」、6章が「新たな始まり」という主題で構成されているのだが、ほぼ時系列が前後しておらず、クレーが創造者として生きた時代が激動の20世紀前半であった事実を、年表を辿るようにしてまざまざと認識できる。
2章の「色彩の発見」の時期の作品は、北アフリカ旅行に触発されて、現地の風景の美観に感化されたことによる色彩表現の飛躍を如実に感じ取れる。この時期は戦争にクレー本人がまだ巻き込まれておらず、芸術活動を謳歌する彼の幸福感が絵にも如実に表れているし、制作姿勢も楽観的であったことが伝わってくる。特に第1次世界大戦が勃発する引き金は、1914年に起きたサラエボ事件のオーストリア皇太子夫妻の暗殺であるが、この年に完成したクレーの絵も鑑賞できるとはいえ、まだ不穏な雰囲気は感じられない。むしろ3章の展示空間に登場する「冬のバイソン」という絵は、1913年に完成した作品でありながら、翌年に現実化する大きな戦争の予兆がクレーの無意識に潜んでいるような、近未来への不安を感じさせる。
その3章の「破壊と希望」の時期に絵を制作していたクレーは第1次世界大戦に従軍し、戦禍で友人を失うという悲惨な体験もしているが、このそれ迄の歴史上かつてなかった規模の巨大な戦争が、彼の精神に最大級の衝撃を与えたことは間違いなかろう。展示されている多くの絵には、小市民の家庭的な幸福が戦争という残酷な人災で圧殺されてしまう恐怖さえ感じられるほどだ。
4章の「シュルレアリスム」と5章の「バウハウス」では、4年以上も続いた第1次世界大戦が終わり、その戦争の痛手から立ち直り美術界でも絵が評価されていく時代になっていくが、6章の「新たな始まり」では在住していたドイツでナチスが台頭し、前衛芸術家への弾圧を受けて、スイスへの亡命を余儀なくされる。
クレーがドイツから去って後に、第2次世界大戦がとうとう勃発してしまうが、彼が他界するのは1940年であり、第1次世界大戦よりも戦域が拡大し犠牲者も膨大化する第2次世界大戦はまだその終わりが見えなかった。ただ外側の世界が恐慌状態に陥っていく中、亡命直後こそ創作意欲も減退し作品数も激減したが、数年後に復調すると病に冒されながらも創造活動は旺盛になっていく。この晩年の作品群には140点の自作品がナチスによって「退廃芸術」の烙印を押されて没収されたことへの抗議や弾劾を感じさせる絵もあるのだが、むしろ戦争に決別した彼の精神から生まれた希望の色合いの方が濃い。つまりクレーは最後まで希望を捨てなかった。
私がクレーの絵画世界でその絵に神秘的であると同時に親愛感溢れる魅力を感じるのは、格子の目を色違いで並べた市松模様のようでありながら、そこに嵌め込まれた四角形のサイズが一様ではない抽象画たちだ。この幾何学的な色彩構成が独特なのは、視覚表現でありながら鑑賞する側が、音楽表現に接するような時間感覚を受容できることである。恐らくクレーは音楽家が作曲に際し、誠実に一音一音を選ぶように、サイズの違う一つ一つの四角形に色を選んで塗っている。
つまり完成した絵は、十二分にクレーが音と音の関係性に配慮して作曲した音楽の印象に近い。私たち鑑賞者はクレーの絵と向き合った時、始まった音楽が終わるまでそこを立ち去ることができなくなるように、絵の前で留まる他ない。そしてこの時間は名残惜しいほどに、見る人によっては癒される体験になるのだ。
私が一番好きなクレーの絵は、5章の「バウハウス」の空間に展示されていた「北方のフローラのハーモニー」だ。この絵が完成した1927年のクレーはバウハウスで教職に就いていた頃であり、まだドイツにおいてナチスは台頭していなかった。それはこの絵には、数年後に人間の心の領域にさえ侵入し蹂躙するファシズムへの警戒や不安が微塵も無いことからも明らかだ。この絵が50個以上の固い四角形で構成されていても、絵全体の印象が温かく柔らかいのは、第1次世界大戦の惨禍を知り尽くしたクレーが平和を強く希求するがゆえであろう。
つまりクレーの心の中では、もう2度と世界大戦が起きてはならなかったのだ。しかし時代はそんな彼の気持ちを裏切るように、やがて第2次世界大戦がはじまってしまう。こうした歴史的事実を鑑みると「北方のフローラのハーモニー」は痛切極まりない絵だが、最晩年のスイス亡命後の1年間で1000点を超える鬼神の如き創造活動の起動点になっていたのかもしれない。
「北方のフローラのハーモニー」は今回の展覧会の看板やポスターやウェブページにも象徴的に使用されているが、このブログに載せた写真では、奥側ではなく左手前の大きな看板で確認できる。また展覧会ではクレーの名言も紹介されており、それは彼の墓石にも刻まれている言葉だ。「この世では、私を理解することなど決してできない。なぜなら私は、死者たちだけでなく、未だ生まれざる者たちとも、一緒に住んでいるのだから」これは 「北方のフローラのハーモニー」の絵からも、彼の肉声として聞こえてきそうな普遍的メッセージである。