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コメダ珈琲と名古屋の合理的精神

2018-06-08 16:00:11 | 日記
今回は、名古屋の喫茶文化を日本全国に広めているコメダ珈琲を紹介したい。私自身はコメダ珈琲店を利用する場合、モーニング・サービスが適用される時間帯が多い。理由はコーヒーにトーストとゆで卵が無料で付いてくるからだ。これはコメダ珈琲に限らず名古屋の喫茶店にはよくあるサービスらしい。そのせいか、名古屋を含めた中部地方の人たちは喫茶店の利用率が高い。ところがコーヒーを好んで飲む人は他の地域と比較すると少ない方である。これは納得できるデータだろう。なぜならコメダ珈琲のコーヒーはコーヒーの味や香りに拘りがある人には殆ど魅力がないそうだ。私も実はこの店のコーヒー自体を無難な味ではあっても美味しいと感じたことが一度もない。有難いのはトーストとゆで卵や、ゆで卵を含めた選択肢になる小倉あんや卵ペーストである。また座席が柔らかく座り心地が良いのと、庶民的で落ち着ける店内の雰囲気や空間が素晴らしい。つまりリラックスして長居できるわけだ。実際、仕事の商談等にこの喫茶空間を利用するサラリーマンもよく見かける。この為、当然リピーターも多い。多分、コーヒーを美味にするにはコストと時間がかかる為、他の要素で商売を成功に導いているのだ。この辺は、名古屋人の合理的精神を象徴しているようでもあり面白い。

ここからは名古屋を含めた中部圏について考察してみたい。この地域は古くから首都圏や近畿圏とも違う独自性を持っているという説がある。そして東京からみると名古屋は大阪の影響が強いとか、大阪からみると名古屋は東京の影響が強いと口にする人もいるが、それはやや短絡的な発想だろう。確かにロシアの偉大な作家ドストエフスキーも、ロシアはヨーロッパからみるとアジア的であり、アジアからみるとヨーロッパ的であると発言したこともあり、そこは言い得て妙なのかもしれないが、ここはもう少し深く考えてみる必要がありそうだ。

日本の中部圏に本格的な繁栄の兆しや存在感が現れるのは、源頼朝が関東に鎌倉幕府を開いて、京の都から政治の中心をダイナミックに移動させてからである。この頃から東西の流通の要として経済的機能を発揮しはじめるわけだ。この後、後醍醐天皇による建武の新政により鎌倉幕府が崩壊し、足利尊氏によって室町幕府が開かれると、再び政治の中心は西の京の都に戻ってしまうわけだが、ユーラシアの巨大帝国襲来という元寇があれども、比較的安定していた鎌倉幕府に比べて室町幕府は戦乱や政争が絶えなかった。そして日本よりも文明が進歩していた大陸からの影響が顕著であった九州、山陰、中国地方が海外貿易で割と富み栄えていたにも関わらず、応仁の乱以降に室町幕府が崩壊した後、中央集権を目指す動きを決定的に強めたのは、中部圏出身の戦国大名の織田信長と豊臣秀吉と徳川家康である。そしてこの三人は個性は違えども、先見性を有した合理的精神の持ち主であった。興味深いのは信長が本能寺の変で倒れた後に秀吉が大坂城を築き、その秀吉に関東へ移封された家康が江戸城を築いたことだ。この両者の行動で中部圏の合理的精神は大阪と江戸へも注入されたことになる。さらに付け加えるならば、豊臣政権の五大老で秀吉と旧友の前田利家が加賀百万石を有していたことを考えれば、北陸もまた同じように中部圏の合理的精神が注入されていたことになるだろう。この後、秀吉の天下統一により、この合理的精神は日本全国にも影響を及ぼしていく。ただ、信長や秀吉や家康は合理性には優れていても、他地域の戦国大名と比較すると個性は薄かったようだ。たとえば安芸の毛利元就、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、豊後の大友宗麟らは独自性にも優れ非常に個性豊かである。それに信長の所業で有名な比叡山の焼き討ちは、それ以前に室町幕府の第六代将軍の足利義教が行っているし、信長の西洋かぶれも九州地方よりも後発だ。この辺りは歴史の皮肉を感じさせはしまいか。

しかし日本が近世から近代へと向かう幕末の動乱を経た明治維新の時期に、欧米列強の植民地政策の餌食にならずに済んだのは、ひょっとするとこの合理的精神のおかげなのかもしれない。欧州で産業革命が発展した時期、日本は鎖国体制下にあり、一見すると時代遅れの社会だったと思われがちだが、長崎の出島から外国の情報は厳選されて入ってきていたし、江戸の町は下水道が完備されていて非常に清潔であった。また農村でも商品経済が発達し農業と商業が連携した工場制手工業が稼働しており、しかも驚くべきことに世界初の先物取引市場は大阪の堂島米市場である。つまり天災による飢饉等はあろうとも経済発展の道を地道に進み続け、金融立国の要素さえもあったといえるわけだ。これは効率性を重視する合理的精神がなければ有り得ない話である。そしてそういう下地があったからこそ、産業革命も含めた明治の文明開化が速やかに進行したと思われる。

ただし、倒幕という江戸幕藩体制の崩壊と明治維新を成し遂げた原動力が、半ば知識過剰の非合理的な感情や思想信条に突き動かされた薩摩や長州及び土佐の下級藩士たちにあったことは疑うべくもない事実である。特に尊王攘夷の攘夷という概念などはまさに観念が肥大化した非合理の典型であろう。しかし同時にこの維新の志士たちと骨肉相食む激闘を繰り広げた新選組や会津藩士たちもまた、尊王攘夷と相反する佐幕派として非合理的な感情や思想信条に突き動かされていたともいえる。そして、あの激動の時代のクライマックスに、官軍を率いて江戸総攻撃を準備した西郷隆盛を説得し、江戸無血開城を成し遂げ戦禍を防いだ勝海舟はまさに合理的精神を体現した政治家である。勝海舟は三代続いた謂わば生粋の江戸っ子だが、非祖父は北陸の出自であった。恐らく江戸幕府には彼以外にも合理的精神で政治を行い難局をのりきろうとした人物も少数ながらいたはずだが、最後に幕を引いた勝海舟にしてみれば時既に遅しの観があっただろう。明治維新から昭和の第二次世界大戦の敗戦までの時代の流れを振り返ると、歴史にもしもは有り得ないとはいえ、江戸幕府最後の征夷大将軍の徳川慶喜が大政奉還をした後、徳川氏も含めた明治維新よりも広く多くの諸藩を結集することになったであろう合議体の新政府による架空の日本がどのような足跡を近代から現代にかけて残したかを、仮説として想像してみるのもそれまた一興である。

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